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日本人の物語01344【室町/義教期】将軍不在

長らく「義持VS持氏」の対立について言及してきましたが、ここからは「義教VS持氏」です。

 応永35(1428)年4月27日。長かった応永が遂に終わり、「正長」に改元されました。新将軍就任を理由とする「代始改元」が後小松上皇に拒否されたため、幕府はやむなく義持死去を理由とする改元として仕切り直して申請したのです。ちなみに重臣死去を理由とする改元は、二条良基死去を受けて「康応」と改元された例などがあります。
 改元の直後、いきなりキナ臭い噂が洛中を駆け巡りました。5月に鎌倉公方持氏が上洛を企てたものの、関東管領山内上杉憲実に諫められて諦めたという話です。持氏はかねてより「義持の猶子になりたい」などと主張して将軍の座を狙っていましたが、自分という実力者がいるのに弟4人からくじ引きで6代将軍を選んだことにひどく不満を持っていたようです。
 しかも、この時点では義教に未だ将軍宣下はなされていません。持氏は、今からでも上洛すれば将軍職を義教から奪い取れるとでも思っていたのかもしれません。しかし幕府との対立を避けたい憲実は必死に止めます。諫言だけでは効き目がなかったため、憲実は
「上野国から新田氏が攻め上ってくるとの情報がある。今鎌倉を離れることは危険だ」
と嘘をついてまで持氏を止めたとの噂もあります。
 義教は自分を新将軍と認めない勢力がいることを知り、相当に不機嫌になったことでしょう。
 持氏上洛の噂があったためかどうか分かりませんが、6月に入ってから義教は雑訴の処理を始めようとします。まだ将軍就任前ではありますが、事実上将軍としての仕事を開始しようというのです。鎌倉幕府における2代将軍頼家などは正式に将軍に就任する前から将軍として振る舞っていましたから、前例もあるし問題ないだろうと思ったのでしょう。
 ところが満済が清原良賢(きよはらのよしかた:1348~1432)に問い合わせたところ、思わぬ猛反対に遭いました。清原がいうには、
「もし将軍宣下もないのに沙汰を始めることを認めてしまうと、今後、実力によって将軍に代わろうとする者が現れ、将軍宣下もないのに将軍として振る舞い始めるおそれがある」
というのです。確かに一理あります。
 将軍不在の期間が長く空くことは、鎌倉公方持氏との関係をさらに不安定化させるリスクを孕んでいます。義教は焦っていたでしょうが、朝廷側が消極的である以上、何とも動きようがありません。
 この将軍不在の政治的空白期間に、かねてより病弱だった称光天皇が再び危篤に陥ってしまいます。

清原良賢がいう「実力によって将軍に代わろうとする者が現れ・・・」というのが、この後実際に起こります。それを戦国時代と呼ぶのですがね。

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