日本人の物語01231【南北朝最末期】明徳の乱 氏清死す
もっとフォロワーを増やしたいという気持ちはあるのですが、かといってキャッチ―なブログになるようにタイトルや本文を軽いノリに変更したくはないので、まあこのままでよいか、という感じです。
山名氏清は押小路大宮で大内義弘と戦っていました。義弘軍は緒戦からずっと戦い通しで、さすがに疲れが隠せません。
このとき、将軍御馬廻の中に参じていた山名時熙は、僅か53騎で押小路大宮に繰り出し、伯父の氏清と戦っていました。時熙はここで成果を上げなければ無職のままであり、自然と力が入ります。
戦いの中で53騎が僅か9騎に減りながらも、時熙軍は善戦していました。特に敵兵をなぎ倒していたのが垣屋弾正と滑良兵庫助です。氏清が
「あのたった2人の敵にずいぶん多くの兵がやられているではないか。あの2人を倒せ」
と指示すると、兵たちが2人を取り囲みます。垣屋・滑良は敵を打ち払いましたが、5人がかりで囲まれたのでさすがに討たれてしまいました。時熙本人は大内軍の中で比較的安全圏にいましたが、勇敢な家臣2人の死を知って涙を流したといいます。このときの時熙軍の活躍によって、後に時熙は幕府内で重きを置かれることとなります。
満幸軍を追い払って小休止をとっていた義満のところに、義弘苦戦中との知らせが入りました。義満が
「今こそ御馬廻の出番である。誰か氏清と戦う者はおらぬか」
と募ると、一色詮範が手を挙げました。一色勢は斯波義重の軍とともに押小路大宮に向かい、苦戦していた大内軍を援護します。
ほぼ無傷の一色・斯波軍が新たに登場したため、さすがの氏清軍も押されていきます。氏清は落ち延びようとしたところを一色勢に囲まれ、一色詮範に討ち取られました。
こうして天下分け目の明徳の乱は、僅か1日にして決着がつきました。
年が明けて元中9/明徳3(1392)年1月4日、義満による論功行賞が行われます。山名家の持っていた11ヶ国が幕臣たちに分け与えられます。
・氏清が持っていた丹波国は細川頼元へ
・満幸が持っていた丹後国は一色満範(いっしきみつのり:1368~1409)へ
・義理が持っていた美作国は赤松義則へ
・氏清が持っていた和泉国と義理が持っていた紀伊国は大内義弘へ
・氏清が持っていた但馬国は山名時熙へ
・満幸が持っていた伯耆国は山名氏之へ
・満幸が持っていた隠岐国と出雲国は京極高詮へ
・氏清が持っていた山城国は畠山基国へ
反乱軍の主力であった氏清・満幸はもちろん、戦いに直接参加していなかった義理の領国までもが取り上げられました。一方、中立を守っていた山名氏家については因幡国を取り上げられずに済みました。これで山名は11ヶ国持っていたのが僅か3ヶ国となりました。
