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日本人の物語01276【室町/義満期】親王待遇での元服式

日本史上最も昇叙が早いのは足利義嗣ではないでしょうか。この後も、これより早い人は現れていない気がします。

 無位無官だった義嗣が、応永15(1408)年2月27日に始めて従五位下を与えられてからの昇進の勢いをご覧ください。
 まず3月4日、義嗣は正五位下・左馬頭となりました。僅か1週間での昇進です。余談ですが、同日に義嗣と同い年の弟・春寅(はるとら:1394~1441)は青蓮院(京都市東山区)で出家させられ、義円(ぎえん)という法名を与えられました。同い年で同じ父から産まれた両名の明暗がくっきりと分かれたわけですが、まさか義嗣が志半ばで殺され、出家した義円が後に6代将軍義教となるとは、誰も予想できなかったでしょう。
 3月8日。後小松天皇が北山第を訪問し、何と21日間も滞在しました。天皇が臣下の邸宅を訪問すること自体珍しいことですが、これほどの長期間滞在するのは異様です。
 この滞在時、義満は天皇の座に繧繝縁(うんげんべり)の畳を敷きつつ、自らの座にも同じものを敷きました。繧繝縁は本来、上皇と天皇にしか許されない畳であり、自らを上皇に擬したかったのでしょう。とはいえ、義満の威容と高慢を示すエピソードは既に多数紹介してきたので、この程度ではインパクト不足かもしれませんね。
 また義満は、この北山第での天皇との面会に義嗣を同席させ、3月14日には天皇の前で笙を披露させました。笙は公家のたしなみとして重要とされており、義嗣はその才能に優れていたようです。一方、義持は笙は苦手だったらしく、義満は義持を同席させず洛中警固を命じました。
 世間では義持と義嗣のどちらが義満の後継者なのか分からず、義持を「京御所」、義嗣を「新御所」と呼ぶようになりました。
 そして義嗣は3月24日に従四位下となり、3月28日には左中将となりました。太政大臣を目指しているとしか思えない勢いです。
 そして義嗣昇進の集大成ともいえる出来事が、4月25日の元服式でした。義嗣の元服式は内裏で行われたのですが、本来、元服に内裏を使うことが許されるのは親王だけです。つまり義嗣はこの日、親王と同等に遇されたのです。加冠役は内大臣・二条満基が務めました。
 義嗣は元服と同時に従三位・参議に昇進しました。
 義嗣の人生は宝くじに当たったかのような激しい変化を遂げたといえるでしょう。14歳で父との運命の再会を果たし、その時点では無位無官だったにもかかわらず、僅か2ヶ月で従三位・参議として公卿の仲間入りです。
 義嗣を前代未聞の勢いで昇進させた義満の真意はどこにあったのか、考えてみましょう。

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