日本人の物語01595【室町/西国/応仁の乱】なぜ金を貸したのか
日野富子=悪女説とそれに対する反論を書きます。しかし一度出来上がった偶像は容易には崩れないものですね。
地方ではまだまだ戦いが続いているものの、京では和解ムードが強まってきました。文明8(1476)年12月には義政が義視に「和睦した後も粗略に扱わない(つまり戦犯として罰したり出家を命じたりしない)」と誓いました。これで大内政弘も賛成に転じ、もはや和睦は時間の問題となりました。
ところが、文明9(1477)年7月の尋尊の日記に不思議な記述があります。例によって日野富子の悪口なのですが、引用してみましょう。
「御台所(富子)は天下を牛耳っており、巨万の富をその手元に集めている。戦費に困る両軍の大名たちは仕方なく高い利子を払って金を借りている。そのため天下の金はことごとく御台所が握ってしまった。近頃は米倉のことを仰せだそうだ。米を買いためて投機をやろうということらしい。畠山右衛門佐(義就)も先日、御台所から一千貫文を借用した」
これは驚きの内容です。富子が敵である畠山義就に融資をしたというのです。この記述は、
「富子は将軍の妻でありながら西軍に通謀しており、終始西軍方の味方であった」
とする俗説や、
「富子は勝敗に興味がなく、頼まれればいずれの軍にも金を貸す『死の商人』であった」
とする富子=悪女説の根拠とされてきました。
しかし義就が富子から金を借りた動機を考えると、また別の見方ができます。実は義就は、金を借りた2ヶ月後の9月22日に西陣を捨てて河内に帰国しています。頼みの大内軍までもが和睦に応じてしまい、もはや西軍内で戦闘継続を訴えるのが自分だけになってしまい、遂に京での戦いを放棄したわけです。
してみると、義就が富子から借りた金は、軍勢を率いて帰国するために必要な費用だったと考えられます。富子は戦乱終結のために身銭を切ったこととなり、むしろ賞賛されるべき義挙といえるでしょう。(もっとも、義就は京での戦いを捨てただけで、引き続き河内で政長軍と戦い続けますから、富子の金は義就の戦闘継続のために消費された部分もあります。)
また、尋尊日記には全く異なる解釈もあります。当時、政長は「畠山左衛門督(さえもんのかみ)」で義就は「畠山右衛門佐(うえもんのすけ)」でしたが、歴史学者の呉座勇一氏は、
「尋尊は畠山左衛門督と書くべきところを畠山右衛門佐と誤記したのではないか」
→「つまり富子から金を借りたのは西軍の義就ではなく東軍の政長ではないか」
との説を主張しています。
確かに、尋尊は日記の中で「左衛門督」をしばしば「左衛門佐」と誤記していますから、これに加えて右と左を間違えると「右衛門佐」となるので、あり得ないことではありません。「さえもんのかみ」「さえもんのすけ」「うえもんのすけ」は当時の人でさえ間違えやすい官途名だったのでしょう。
今でも「総務課長」と「総務部長」くらいの違いを誤って書いているメールはちょくちょく見ますね。
