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日本人の物語00426【平安後期】平治の乱 義平処刑・頼朝助命

 次は、義朝の長男・悪源太義平の最期を見ていきましょう。
 義平は越前の足羽(あすわ:福井県福井市)まで逃げ延びていましたが、父・義朝の死を聞いて
「かくなる上は平氏軍を一人でも討ってから死のう」
と言って、大胆にも一人で清盛の居宅・六波羅へ向かいます。しかし平治2(1160)年1月19日、疲れから逢坂山(京都府と滋賀県の境界)で眠り込んでしまいます。
 そこに通りかかったのが、平氏の郎党・難波次郎(なんばじろう)でした。難波次郎は雁が列を乱しながら飛んでいるのを見て、
「敵が伏しているに違いない」
と言って捜索し、義平を見つけます。難波次郎と義平は激しい斬り合いとなりますが、疲労困憊の義平は遂に生け捕られてしまいました。
 1月25日。六波羅に連れて来られた義平は、斬首となりました。最後の言葉は、
「うまく斬れよ。上手く斬らないとお前の顔に食らいつくぞ」
というものでした。実に義平らしい最期でした。
 さらに2月9日、頼朝もまた近江国で捕縛され、清盛の元に連行されてきました。
 頼朝はまだ13歳で、ほとんど戦闘に参加していなかったとはいえ、義朝の三男ですから、清盛は当然これを処刑しようとします。
 ところが、思わぬ邪魔が入りました。清盛にとって、父の正妻に当たる池禅尼が
「まだ幼い子供ではないか」
と言って処刑に反対したのです。おまけに、
「この子は亡き家盛によく似ている」
と言い出し、さめざめと泣き出したのです。
 清盛にとって、池禅尼は実の母ではありません。清盛の母は名も知れぬ側室です。しかし、池禅尼は育ての母であり、恩人でした。
 困った清盛は、
「いくら母の願いでも助命はならぬ」
と述べて母を説得しようとしますが、思い余った池禅尼は断食を始め、執拗に頼朝の助命を乞いました。
 池禅尼が痩せこけてしまい、死の危険まで生じたことから、清盛はやむなく減刑を決め、3月11日、頼朝を伊豆に流罪とすることを決しました。まさかこの頼朝が、25年後に平家を滅ぼすことになるとは、誰も予想しなかったでしょう。池禅尼の優しさが平家の破滅を招いたのです。

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