日本人の物語01162【南北朝後期】頼之政権、始動
細川頼之は南北朝時代を終わらせた最大の功労者だと思うのですが、高校日本史教科書には7社中1社しか載せていません。もっと知名度が上がると良いのですが。
管領に就任した細川頼之が最初に執り行ったのは、義詮の葬儀の手配でした。頼之が葬儀全般に渡って指揮を執る姿を見て、諸大名は頼之が幼い将軍に代わって政務を取り仕切ることを知りました。
さらに頼之は平行して、九州探題の人事を練り始めています。
九州探題といえば、渋川義行が就任したものの何らの成果を上げることもできず、そもそも九州に上陸することすらできずにいました。九州全域は相変わらず南朝方の手に落ちたままです。頼之は「まずは人事を変えなければダメだ」と考えたらしく、義詮が死去した翌日に当たる正平22/貞治6(1367)年12月8日付けの書状で、九州の阿蘇氏に対して新たな九州探題を送り込む予定であることを明かしています。もっとも、この人事はなかなか決まらず、最終的に今川了俊が選ばれるまでに2年あまりを費やすのですが、頼之が九州を重視していたことは間違いありません。
さらに12月29日には、頼之による最初の法令が発せられました。年始を前にした五箇条の倹約令です。
・年始の贈答は停止する
・華美な衣装を禁止する
などの倹約の在り方を示したもので、将軍の死を弔うことを目的としたものでした。義詮時代には、有力守護がとにかく将軍の意向に従わず困っていましたが、将軍の権威を取り戻すために必要な法令だったと考えられます。
ちなみに、武将の中で最も華美な服装で知られるのは、あの婆沙羅大名の異名を持つ佐々木道誉でしたが、その道誉がこの倹約令に大人しく従ったので、他の武士たちも全て従ったといいます。おそらく頼之はあらかじめ道誉と示し合わせたのでしょう。
年が明け、正平23/貞治7(1368)年2月12日、頼之は「諸山入院禁制条々」を発して、天龍寺などの禅宗寺院に対しても倹約を求めました。禅宗寺院は有力守護たちと組んで、公家や旧寺院といった旧勢力から荘園を押領するなど、新興勢力として力をつけてきていたのですが、頼之はこうした新興勢力が武力で土地を強奪することが戦乱の原因であると考え、彼らに規制を加えて引き締めようとしたのです。こうした姿勢が、後に幕府と禅宗界との深刻な対立を生んでいくことになりますが、戦乱を終わらせるために必要な政策だったと思います。
2月18日、北朝は元号を「応安」と改めました。元号の文字通り、安らかな世になるのでしょうか。
