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日本人の物語01297【室町/義持期】上杉禅秀の乱 管領の関与

この「禅秀の乱」に一体何人の幹部が絡んでいたのか、恐ろしい話です。

 応永23(1416)年11月9日。義嗣は監視しやすい等持寺北隣の林光院に移されました。そしてこの日、富樫満成による山科教高への取調べが行われました。
 同日には幕閣による評議が行われ、こんなやり取りがあったと記録されています。管領・細川満元が
「もし山科教高が『諸大名が四、五人関与している』と白状したらどうするつもりなのか。糾問は無益だからやめた方がよい」
と述べ、それに反発した畠山満家が
「義嗣の野心は明白ではないか。切腹させるべきだ」
と発言すると、満元は色をなして
「それは軽率だ」
と反論したというのです。管領・細川満元は事態を早期に収束させようとしており、いかにも怪しく見えますね。
 果たして11月25日、富樫満成による語阿への取調べの結果が明らかになりました。何と義嗣と禅秀の反乱には、細川満元、斯波義重、赤松義則らが加担していたというのです。いずれも重臣中の重臣です。
 とりあえず山科教高・日野持光は加賀に流罪と決まりましたが、加担していた重臣の処分をどうするか、義持は迷いに迷ったに違いありません。
 とはいえ、鎌倉は未だ禅秀らに占領されたままです。これを早期に奪回しなければなりません。12月11日、義持は持氏に牙旗(将軍の御旗)を与えることを決めました。つまり禅秀らは正式に賊軍と認定されたこととなります。禅秀軍の中には「きっとこのクーデターは幕府に認めてもらえるはずだ」と見込んでいた者もいたでしょうから、牙旗の下賜は禅秀軍の結束を大いに乱したことでしょう。
 さらに12月14日、義持は称光天皇の名「躬仁(みひと)」は「身に弓あり」と書くので不吉だとして、「実仁」に改めるよう申し入れました。物騒な戦が続くのは天皇の名のせいだというわけです。
 そもそも称光天皇は気性が荒く、気に入らないことがあると近臣や女官を鉄製の鞭で打ち据えたとの話もあるほどで、義持は天皇の扱いにほとほと困り果てていました。去る7月1日の火事では、天皇の住む内裏も上皇の住む仙洞御所も焼けてしまい、義持は天皇・上皇に避難を要請するも2人ともこれを拒否。最終的に後小松上皇は渋々小川邸に避難しましたが、天皇は結局内裏から動きませんでした。義持はこうした天皇の気性が戦を呼び込むのだと本気で信じていたのかもしれません。

義持、相変わらずスピリチュアルなものを信じやすい性質のようですね。そういうものを信じて天皇に名を変えさせるとはさすがです。

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