日本人の物語00179【飛鳥】36代孝徳天皇
蘇我本宗家を倒した中大兄皇子は、さっそく人事を一新しました。
まず、母親である皇極天皇を退位させました。これが史上初の生前退位です。
生前に退位した天皇のことを「太上天皇(だいじょうてんのう)」と呼び、これを略して「上皇」と呼びますね。しかし「太上天皇」が法制化されるのはまだ先のことなのです。この時代、まだ「太上天皇」という概念がないまま皇極天皇は退位したので、「皇極上皇」という呼び方はしません。
孝徳天皇元(645)年6月14日。新たに天皇に即位したのは、なんと軽皇子でした。中臣鎌足が軽んじ、「天皇の器ではない」と判断したあの軽皇子です。軽皇子は即位し、孝徳天皇となります。
小沢一郎が、海部俊樹首相のことを陰で
「担ぐ神輿は軽くてパーが良い」
と放言したそうですが(小沢本人は否定していますが)、中大兄皇子の考えたことは、小沢一郎と同じ意図だったのでしょう。中大兄皇子は、自らが権力を握るべく、できるだけ軽くてパーみたいな人に皇位を継がせたということです。
そして中大兄皇子は皇太子に就きました。儀式がいろいろあってスケジュールを縛られてしまう天皇よりも、皇太子の立場の方が自由に動けると思ったのでしょう。
そういえば小沢一郎は、おちまさとによるインタビューの中で、好きな歴史上の人物として中大兄皇子と西郷隆盛を挙げています。海部首相の下で自民党幹事長となった小沢は、自らを孝徳天皇の下で皇太子となった中大兄皇子に重ね合わせていたのでしょうか。
皇后は間人皇女です。中大兄皇子の妹に当たります。
左大臣には阿倍内麻呂(あべのうちまろ:?~649)、右大臣には蘇我石川麻呂が就任しました。
そして内臣(うちつおみ)には中臣鎌足が就任しました。内臣は左右大臣よりも格下ですから、乙巳の変の最大の功績者の割にはずいぶん遠慮していますね。
そして新たに設けられた「国博士」に、旻と高向玄理が就任しました。どちらも唐から帰国した有識者ですね。
一方、古人大兄皇子は出家して吉野に隠居します。蘇我氏と結んでいたため、蘇我氏の滅亡によって失脚したのです。
しかし、中大兄皇子はそんな古人大兄皇子を放ってはおきませんでした。
9月12日。吉備垂(きびのしだる)という人物が、
「古人大兄皇子が謀反を企てている」
と密告して来たのを機に、中大兄皇子は兵を派遣し、古人大兄皇子を殺害させたのです。失脚したとは言え、再び権力を持つことを警戒して殺すことにしたのでしょう。
どうやら中大兄皇子は余程猜疑心に満ちた人物だったようです。
