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日本人の物語00615【鎌倉前期】重慶と栄実の死

 建保元(1213)年以降、将軍実朝は御家人たちからますます浮いていきます。
 建保元(1213)年9月19日。鎌倉に
「8年前に殺害された畠山重忠の末子である重慶(じゅうけい:?~1213)という僧が、日光山(栃木県日光市)の麓で浪人を集めている」
との情報が入ってきました。つまり、反逆を企てているというわけです。実朝は御家人の長沼宗政に、重慶を鎌倉まで連行してくるよう命じました。
 9月26日。長沼宗政は重慶の首を持って鎌倉に帰還しました。
 実朝は
「畠山重忠は無実の罪で誅殺された。その末子が陰謀をめぐらしたかどうか、まずは生け捕りにして確かめてから処分すべきところ、いきなり誅殺したのは軽率である」
と嘆きました。もっともな理屈だと思います。
 しかし長沼宗政は実朝に向かって、
「重慶の反逆は疑いようもなかった。このようなことを言われるようでは、誰が忠節を尽くせようか」
と暴言を吐きました。
 平和主義者たる実朝は、御家人から支持されにくい性格だったと思われますが、それにしても、御家人が将軍に対してこのような暴言を吐くとは頼朝の時代には決して許されなかったことです。それだけ実朝は蔑ろにされていたのでしょう。
 さらに建保2(1214)年11月13日には、京において和田の残党が頼家の三男・栄実を推戴し、幕府の出張所である六波羅を襲撃しようとしました。幕府方がこれを鎮圧し、栄実は自害に追い込まれました。
 4人いた頼家の息子のうち、殺されたのは長男・一幡に続きこれで2人目となります。残るは次男・公暁(くぎょう:1200~1219)と四男・禅暁(ぜんぎょう:?~1220)です。公暁は「くぎょう」と読む説と「こうぎょう」と読む説とがあります。
 御家人同士で、あるいは親族同士で殺し合う事件が連続して起こり、実朝は大いに苦しんだことでしょう。
 しかし実朝の苦しみを理解する御家人は皆無でした。むしろ実朝が朝廷から官職や位階を次々にもらって喜んでいることが、御家人たちの不満を高めていました。武家の棟梁なのに朝廷の方ばかり向いているというわけです。

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