日本人の物語01417【信広渡海】コシャマインの乱 鎮圧
コシャマインの強さは異常です。地域の英雄としてもっと顕彰されても良いんじゃないかと思います。
小林良景・河野政通が茂別館に逃れたので、コシャマインは配下の兵にこれを追撃させ、⑧安藤家政の茂別館を襲撃させつつ、自らは⑪佐藤季則の中野館を陥落させます。
地図を確認すると、コシャマインはどうやら東から攻めていることが分かります。本拠地が東部の長万部だとしたら、この方角から攻めてくることは頷けます。
コシャマインはここで自軍を二手に分け、一方は南下して⑫南條季継の脇本館を落とし、もう一方は⑥蠣崎季繁の花沢館を襲撃しました。
⑫脇本館を落とした一軍は南西に向かい、②蔣土季直の穏内館を落として次に③今泉季友の覃部館を落とし、さらに①安藤定季の大館を攻めます。しかし大館はさすがに松前守護の本拠地であり、なかなか落ちません。
コシャマイン自身は①大館の攻撃にしばらく集中することになりました。包囲された安藤定季は⑥花沢館の蠣崎季繁に応援を求め、やがて援軍がやって来ましたがことごとくコシャマインに敗北してしまいます。そのうちに①大館は陥落し、安藤定季と相原政胤は生け捕りとなりました。
なかなか落ちなかったのが⑥花沢館です。コシャマインは⑥花沢館の包囲戦を助けるため北上し、その途中で④近藤季常の禰保田館を落とし、次に⑤岡部季澄の原口館、次に⑦厚谷重政の比石館を落としていきました。
こうして道南十二館のうち、陥落せず残ったのは⑥蠣崎季繁の花沢館と⑧安藤家政の茂別館だけとなりました。
コシャマインはほぼ全軍で⑥花沢館を包囲しますが、花沢館側は武田信広率いる軍と佐々木繁綱(ささきしげつな)率いる軍の2軍に分かれ、コシャマインへの奇襲作戦に討って出ました。この佐々木繁綱とはかつて安芸武田氏の家臣で戸屋ヶ丸城(広島県福山市)の主を務めていたのが、武田信広とともに放浪して蝦夷地までついてきたのだそうです。
佐々木軍は大館奪回に向かい、迂回して大館を背後から襲撃して、生け捕られていた安藤定季・相原政胤を見事救出しました。
一方の武田軍は、箱館奪回に向かいます。長禄元(1457)年5月20日、武田信広は箱館を取り囲んだ後、わざと負けて敗走していきます。コシャマインらが追撃してきたところで、七重浜に潜ませていた相原政胤軍が奇襲をかけました。
驚いたコシャマイン軍が総崩れとなる中、武田信広自ら矢でコシャマイン父子を射殺し、遂に乱を平定しました。
コシャマイン討伐の功を上げた武田信広は大いに名を上げ、蠣崎季繁・安藤家政は武田信広の武勇を賞して太刀を与えました。
コシャマインを倒したのは、武田信広自ら放った矢だった、というのはいかにも怪しい伝説ですね。
