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日本人の物語00364【平安中期】前九年の役 名称の謎

 前九年の役が終わり、藤原経清の妻・有加(ゆか)は捕らえられ、清原武貞の妾とされました。女は戦利品とみなされていたのですね。
 藤原経清と有加の間に産まれていた嫡男(6歳)は、清原家に引き取られました。これがその後の奥州藤原氏の祖・藤原清衡(ふじわらのきよひら:1056~1128)です。
 康平6(1063)年。清原武則が鎮守府将軍となり、衣川に住み着くようになりました。つまり、安倍氏に代わって清原氏が東北の覇者となったわけです。
 永承6(1051)年から12年間に渡って続いた前九年の役は、こうして終わりを告げました。しかし6歳の清衡が清原家に引き取られたことが、後に清原氏の内部抗争を生み、「後三年の役」の原因となるのです。やはりこのような戦乱の時代においては、首謀者の家系は根絶やしにしておいた方が良かったのでしょうね。
 前九年の役と後三年の役は一対となる戦乱ではありますが、後三年の役については平安後期の稿で取り上げたいと思います。
 最後に、「前九年の役」「後三年の役」という名称の不思議について触れておきたいと思います。
 そもそも「前九年の役」といいますが、この戦乱は永承6(1051)年から康平5(1062)年にかけて続いており、12年間です。
 また「後三年の役」といいますが、この戦乱は永保3(1083)年から寛治元(1087)年にかけて続いており、5年間です。
 このズレが生じたのには、複雑な経緯があります。
 まず、後三年の役については、現代では永保3(1083)年~寛治元(1087)年の5年間と考えられていますが、かつては源義家が介入した応徳3(1086)年から凱旋した寛治2(1088)年までの3年間と考えられていました。2つでワンセットの戦乱であり、その後半戦であることから「後三年の役」と呼ばれるようになりました。
 そして永承6(1051)年から康平5(1062)年にかけての戦いについては、かつて「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。ところが、後世の人間がこれを「後三年の役」も含めた名称だと勘違いしてしまい、「12ひく3」で9年間の戦いだと誤認してしまったのです。
 誤解に基づく名称なのですから、発覚した時点で変更・訂正すればよいと思うのですが、「前九年の役」という名称は『保元物語』や『源平盛衰記』といった鎌倉時代に成立した文献で使われてしまっており、完全に定着してしまったため、今更変えられないのです。

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