日本人の物語01578【室町/西国/応仁の乱】厭戦気分
五日市や十日市という地名はよく聞きますが、九日市というのは初めて聞きました。
因幡・伯耆ともに守護の領国への影響力が失われていることが窺えますが、こうした傾向は他の国でも同様でした。守護たちはもはや都で争っている場合ではなく、皆領国に帰りたがっています。文明3(1471)年3月には九日市城(兵庫県豊岡市)を守る西軍方の北但馬守護代・垣屋宗忠(かきやむねただ)が、東軍方の山名是豊の子・頼忠(よりただ)に襲撃されるなど、山名家自身も疲弊していました。宗全はこうした西軍内の厭戦気分を察して、和睦を考え始めます。
一方の東軍も、様々な問題に忙殺されていました。文明3(1471)年7月21日には後土御門天皇が当時流行していた疱瘡に罹患して医師の手配に追われましたし、8月3日には義政が正室・富子と喧嘩して勝元邸に移り、重臣たちをヒヤヒヤさせました。ちなみに義政は閏8月29日に御所に戻っており、11月19日には夫婦で天皇との宴に出席しているので、恐らく仲直りしたものと思われます。
もはや西軍に壊滅的打撃を与えることは期待できず、ずるずると戦い続けても疲弊していくばかりです。勝元もまた和睦を考え始めました。
文明4(1472)年1月。遂に山名宗全から細川勝元に和睦の申し入れがなされました。しかし両軍から猛反対する者が出て、この和睦は成立しませんでした。
東軍方で和睦に反対したのは赤松政則でした。政則は既に備前・美作を手に入れており、次に先祖代々の重要な領地たる播磨を手にしなければ戦を終えるわけにいきません。そのためには山名家が滅ぶまで戦い続けなければならないのです。
一方、西軍方で和睦に反対したのは畠山義就と大内政弘でした。畠山義就は宿敵政長を討たなければ引き下がれませんし、大内政弘も3万もの軍勢を引き連れて上洛したからには、領地を増やさなければ引き下がれません。
以上、有力守護3人の反対によって和睦は遠のいてしまいました。
5月になって、細川勝元は突如として思い切った行動に出ました。養子にして嫡男の勝之ともども、髻を切って隠居してしまったのです。
勝之が隠居したことで、細川家の家督は聡明丸が継承することが内定しました。つまり細川・山名両家の血を引く聡明丸が政治の中枢に浮上してきたわけで、宗全としては嬉しい出来事でした。勝元の隠居は、宗全との和睦を今もなお望んでいることを示すデモンストレーションだった可能性があります。
その証拠に、同じ5月に勝元は益田庄(島根県益田市)の益田貞兼(ますださだかね:?~1526)に寝返りを誘う書状を送っており、隠居したいどころかまだまだ政治への意欲がみられるのです。和睦を模索しつつ、一方で次なる戦闘に備えて味方を増やそうとする勝元の慎重な態度が窺えます。
勝元のデモンストレーションに付き合わされ、髻を切らされた勝之はたまったものではないですね。
