日本人の物語01511【室町/東国/享徳の乱】屈辱的な和睦
「太田道真」を「おおたみちざね」と読んでしまうかもしれませんが、これは出家した上での法名ですので「おおたどうしん」と読みます。
越後上杉房定を介した和睦提案は上手く妥結せず、宝徳2(1450)年5月、成氏は今度は管領・畠山持国に仲介を依頼しました。ちなみに当時の幕府情勢は畠山持国と細川勝元が権力を二分しており、畠山が成氏寄り、細川が上杉寄りの立場です。
畠山が提示した和睦条件は次のようなものでした。
・由比ヶ浜で戦功があった者に感状を出す
・山内上杉憲実に関東で政務に復帰するよう御教書を出す
・関東諸氏に対し鎌倉公方に忠節を尽くすよう御教書を出す
これらの項目は成氏に十分配慮したものといえるでしょう。成氏は和睦の仲介を憲実に依頼するなど、父持氏を最後まで庇おうとしていた憲実を信頼していたようです。その憲実が政務に復帰することは、成氏にとって渡りに舟でした。
ところが、成氏にとって我慢ならない項目もありました。
・上杉家はお咎めなしとする。
・長尾景仲は自発的に家宰職を義弟の実景(鎌倉長尾実景)に譲ること
・太田道真は引き続き家宰の地位にとどまってよい
・今後、成氏から幕府に申し入れを行う際には関東管領を通すように
つまり、長尾には隠居を命じるだけで罰は与えない。太田に至っては一切お咎めなしというのです。さらに、今後は関東管領を通してしか幕府に物が言えないのですから、関東管領に絶大な権限を与えることとなります。
成氏にとっては屈辱的な内容だったでしょうが、8月4日、成氏は鎌倉に戻って長尾景仲を赦免しました。隠居を命じることができただけで、罰は与えられないのです。結局、景仲はポーズの上で隠居して弟に権限を委譲しましたが、事実上は家宰職に留まりました。成氏は悔しがったに違いありません。
それからの鎌倉府がどんな状況だったか、史料不足のため想像するしかありません。10月に関東管領憲忠が職を辞して出奔したものの、11月22日付けで幕府から「辞職は認めない」と言われ政務に復帰したとの記録があります。詳細不明ですが、成氏と憲忠の間で大喧嘩があったか、はたまた長尾・太田がけしかけて憲忠に出奔するよう薦めたかでしょう。
享徳元(1452)年11月には、管領職が畠山持国から細川勝元に代わりました。成氏びいきの持国から上杉びいきの細川に権限が移ったことで、成氏は更なる苦境に陥ります。
そして享徳3(1454)年12月27日。いよいよ大乱が勃発します。成氏が憲忠を公方館に呼び出して殺害したのです。享徳の乱の始まりです。
関東で戦国時代が始まりました! といっても、「長享の乱以降が戦国時代」という説もありますが。
