日本人の物語01478【室町/西国/大乱前夜】長禄の変 赤松再興
将軍を殺しておきながら、よくぞお家を再興できたものです。
恩賞をもらえないと知った小川弘光は当然ながらゴネ始めます。
幕府は状況が良く分かっていなかったのか、旧南朝の大物だった北畠教具に説得を依頼しました。教具は家臣を派遣して小川の説得を試みますが、小川は会おうともしません。それどころか、長禄2(1458)年5月30日には
「勾玉は一族の小川弘房(おがわひろふさ)が持ち出してしまったため、ここにはない」
などと言い出す始末です。
幕府と越智と小川と北畠の間で何度もやり取りが行われ、8月26日にようやく事態は打開しました。小川弘光が一転して勾玉の返還を了承したのです。具体的なやり取りは不明ですが、恐らく小川家に対する何らかの恩賞が決定されたのでしょう。
勾玉は8月27日に長谷(奈良県桜井市)に到着し、28日には奈良に到着。そして30日にようやく上洛を果たしました。警護の兵は数百名でした。
無事に三種の神器が15年ぶりに揃い、後花園天皇は感無量だったでしょう。しかし一条兼良は日記に「無益のこと」と書くなど、ひどく白けた態度を取りました。前述のとおり兼良は
「三種の神器の中では鏡が重要であり、勾玉と剣は鏡に内包されている」
と述べており、勾玉がなくとも困らないと主張していたのでした(01449回参照)。
さて、赤松家は11月19日に再興を許され、赤松政則が幕府に出仕することが許されました。赤松再興に躍起になって反対していた山名宗全は、この年の6月に謹慎を解かれ再びの出仕が認められましたが、その条件は赤松再興を承認することでした。宗全は渋々赤松再興を認め、8月9日から幕府への出仕を再開しました。
さて、3歳の幼児である赤松政則に新たな領地を与えなければなりません。赤松の地元といえば但馬と播磨ですが、そこは今は山名家の領地です。管領細川勝元は、盟友たる山名宗全に遠慮して、赤松家に加賀国(石川県南部)の北半分を与えることにしました。これなら山名の領地を侵すことはないと思ったのでしょう。
当時、加賀国では畠山持国が推す富樫成春(甥)が北を、細川勝元が推す泰高(叔父)が南を、それぞれ領していたのでしたね(01451回参照)。しかし細川勝元は赤松政則を守護に復帰させるため、富樫成春を追放してその後継に赤松を置いたのです。
しかし、勝元の宗全への気遣いは伝わりませんでした。宗全はそもそも赤松家の再興自体を認めておらず、加賀だろうとどこだろうと守護に復帰させることに猛反対だったのです。そのため、勝元が富樫泰高を支持する一方で、赤松嫌いの宗全は成春を支持するようになりました。これまで蜜月関係を続けてきた細川勝元と山名宗全に、初めてヒビが入った瞬間でした。
応仁の乱といえば勝元と宗全の戦いですが、この2人はかなり長期間に渡って仲良しだったのです。ここで初めてヒビが入ったといえます。
