日本人の物語00258【平安前期】冬嗣の死と良房の登場
天長2(825)年。藤原冬嗣は左大臣となりました。左大臣は延暦2(783)年以来40年以上空席だった最高の職位です。(ただし、その上に常置ではない太政大臣という役職がありますが。)
こうして北家が藤原氏の頂点に立つこととなりました。以後、歴史上に現れる藤原氏はほぼ全て北家です。
その後、冬嗣は天長3(826)年7月24日に死去しました。左大臣としての在任期間は短かったですが、最高権力者たる左大臣に就任したという事実は、北家藤原氏のその後の栄華に大きく影響したと思われます。
ちなみに、藤原冬嗣の事績の中で特筆すべきものとして、藤原一門のための学舎「勧学院」を設立したことが挙げられます。藤原氏の子弟たちだけが学ぶことのできるという、実に派閥的な考えで作られた学校です。
藤原一族の子たちはここで先輩たちからの講義を受けて、ますます高い政務能力を身につけていったわけです。このような、冬嗣の後進育成のための投資があったからこそ、その後、道長・頼通といった藤原摂関家の隆盛があったのでしょう。
嵯峨天皇の信頼を一身に受け、順調に昇進を重ね、子弟の教育にも尽力した冬嗣は、藤原氏中興の祖と位置付けることができるでしょう。
さて、冬嗣亡き後、藤原家の中で一歩抜きんでて順調に昇進を遂げていくのが、冬嗣の次男・藤原良房(ふじわらのよしふさ:804~872)です。高校日本史では、冬嗣よりも良房の方が重要人物として取り上げられているほどです。
嵯峨上皇も良房をいたく気に入っていたらしく、この頃、娘の源潔姫(みなもとのきよひめ:810~856)を良房に嫁がせました。
皇女が臣下の妻となるのは史上初めてのことです。嵯峨上皇と北家藤原氏(冬嗣と良房)の絆がどれほど強固なものだったかが分かりますね。
それにしても、冬嗣・良房父子は、一貫して嵯峨上皇とのみ縁を深くし、他の皇族とは距離を置いていますね。
前述のとおり、平城上皇と嵯峨天皇という仲の悪い兄弟が天下を二分していたときに、藤原内麻呂は長男・真夏を平城上皇に、次男・冬嗣を嵯峨天皇に、それぞれ側近として仕えさせることにより、リスク分散を図っていました。今は、嵯峨上皇と淳和天皇が(険悪というわけではありませんが)共存している状態なのに、冬嗣・良房父子は淳和天皇とのコネクションを一切築こうとしていません。こんなことで大丈夫なのでしょうか。
結論を先に言ってしまうと、内麻呂は平城・嵯峨の兄弟争いを観察して、どちらが勝っても良いように両方と縁を結んだのに対し、冬嗣・良房父子は嵯峨・淳和の兄弟争いに対して徹底的に嵯峨側につき、徹底的に淳和側をこき下ろし、嵯峨側を勝たせるという方法で対処するのです。ひどく露骨な戦略といえます。
