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日本人の物語01203【南北朝最末期】第二次小山義政の乱

4月も半ばだというのにまだまだ寒いです。コートをクリーニングに出したのが悔やまれます。

 小山義政の乱については、降伏した義政本人が氏満のもとに出頭して謝罪すべきところ、何かと理由を付けてやってこないというところまでお話ししました。氏満は
「さては降伏は偽装だったのだな」
と悟り、天授7/康暦3(1381)年1月12日、小山鎮圧のために兵を動員する許可を幕府に願い出ました。この許可が1月16日に下り、いよいよ第二次小山義政の乱が始まります。
 小山義政は新田の残党たちとともに挙兵しますが、5月には氏満が派遣した長谷河親資(はせがわちかすけ)らが岩付(さいたま市岩槻区)でこれを破りました。
 その後の戦闘の詳細は分かっておらず、ただ何月何日にどこで戦いが行われたかが記録されているだけです。
 6月26日: 本沢河原合戦。
 7月18日: 中河原合戦。
 7月29日: 粟宮口(あわのみやぐち:栃木県小山市)における野戦。
 8月18日: 外城が陥落。
 10月15日: 切岸合戦。
 11月19日: 鷲城(わしじょう:栃木県小山市)内で合戦。
 この11月19日の戦いで小山氏の誇る名城・鷲城が陥落したため、12月8日、小山義政は降伏を申し出ました。一度騙されている氏満は、容易にはこの降伏を信じず、
「自分の願いは義政の首を見ることだ」
と言って受け入れを拒否する姿勢を見せましたが、義政が出家することで収まり、12月10日には降伏を受諾しました。
 第二次小山義政の乱に関連して、義政の側室・鮎子に関する伝説が残っています。
 義政は毎年初夏に領内で鮎釣りの競争を催していました。ある年に優勝したのが石造(いしぞう)という漁師の一人娘で16歳の鮎子(あゆこ)でした。鮎子はこれを契機に鷲城に入り、義政の側室として仕えるようになりました。
 その後、第二次小山義政の乱が起き、鷲城が攻撃を受けました。義政は妻子を密かに脱出させていましたが、鮎子はこれに同行せず最後まで義政とともに城に居残り、男装して一兵士として戦いました。
 そして落城の日、義政は鮎子ともう一人の兵士とともに僅か3名で城を脱出しましたが、思川の河原で敵から大量の矢を受けてしまいます。鮎子は必死に義政を助けた結果、首筋に矢を受けて水中に没しました。義政は鮎子を懇ろに弔い、万年寺に彼女の墓を立てたそうです。
 この話がいつ頃作られたものか分かりませんが、義政が小山の人々に愛されていたことが分かります。

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