日本人の物語00326【平安中期】伊周と道長の対立
永祚2(990)年。居貞親王は大納言・藤原済時(ふじわらのなりとき:941~995)の娘・娍子(すけこ:972~1025)を入内させました。
前述したとおり、居貞親王は藤原兼家とその子供たち(道隆・道兼・道長)を嫌っていたと思われます。居貞親王は兼家家以外の娘を入内させたがっていたわけですが、兼家の死後、初めてそれが可能になったものと考えられます。
正暦2(991)年。円融法皇が崩御しました。その直後、皇太后詮子が出家し「東三条院」と呼ばれるようになります。
正暦4(993)年。一条天皇が14歳になり、道隆は摂政から関白となりました。あわせて、道隆の2人の子の権勢が高まってきました。長男・伊周(これちか:974~1010)と次男・隆家(たかいえ:979~1044)です。
特に公卿たちが注目したのは、次期関白を伊周と道長のいずれが射止めるかでした。
甥・伊周と叔父・道長の競争は、よく古典の教科書で取り上げられますね。特に有名なエピソードはこれです。
道隆邸で伊周が弓芸を披露しているところに道長が現れ、急遽参加することになりました。道長は伊周に圧勝し、さらに
「私が将来摂政・関白になれるならこの矢よ当たれ」
と言いながら射ると、これが命中しました。
他にもこんなエピソードがあります。
詮子が石山寺(滋賀県大津市)に参詣した際、随行していた伊周が急用で中座することになりました。伊周が詮子の車に近づいて暇乞いをしていると、道長が乗馬のまま伊周に近づき、
「早くしろ。日が暮れてしまうぞ」
と言いました。この道長の高圧的な態度に伊周は激怒したと言われています。
正暦5(994)年5月9日。居貞親王と娍子の間に敦明親王(あつあきらしんのう:994~1051)が誕生しました。済時の孫に当たる親王の誕生は、伊周にとっても道長にとっても脅威だったことでしょう。
長徳元(995)年。道隆は病に倒れ、一条天皇に
「息子の内大臣・伊周を私の代理としてほしい」
と述べました。これを受け、
「関白の病の間、官・外記の文書は内大臣(伊周)をして見せしむべし」
との勅命が出されることとなりました。
この勅命をめぐって、伊周と道長の戦いが起こります。
