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日本人の物語01293【室町/義持期】義持の理不尽な怒り

今回紹介するエピソードは、まるで義満の話みたいです。似たもの父子ですね。

 応永22(1415)年に入ると、義持の横暴ぶりはさらに悪化していきます。
 11月9日。大嘗会のため仙洞御所に行幸する称光天皇に供奉するため、義持は弟の義嗣を連れて内裏に参上しました。しかし、供奉するはずの公卿たちの姿がまだ見えません。義持は遅刻者を確認するべく、蔵人頭の海住山清房(かいじゅうせんきよふさ)に命じて供奉人の名簿を持って来させました。
 ところが名簿を見ると、そもそも義持が出勤しているにもかかわらずそのチェックがなされていませんでした。義持は激怒します。
 さらに11月17日、これまた大嘗会のために称光天皇が太政官庁に行幸しましたが、このとき「御簾役のことで」義持は清房に激怒したといいます。御簾役をめぐって具体的に何が起きたのかは不明ですが、清房は謹慎させられた上に所領を没収されてしまいました。
 11月22日には「悠紀節会」という宮中儀式が行われました。この儀式では、関白が挿頭花(かざしのはな)を天皇の冠に指す役割を担うことになっています。しかし関白一条経嗣が早退したので、内弁の徳大寺公俊(とくだいじきんとし:1371~1428)が将軍義持に花を献じ、義持がこれを冠に刺すこととなりました。これはイレギュラーな対応でした。
 翌日行われたのは「主基節会」という儀式です。ここでは、前日の出来事を知らなかった大納言・久我通宣(こがみちのぶ:1373~1433)が内弁を務め、関白経嗣に次第を尋ねたところ、経嗣は
「内弁が関白に献じて関白が刺すこともあれば、内弁が直接刺すこともある」
などと適当なことを答えてしまいます。
 この回答を真に受けた久我通宣は、義持から誰が花を刺すか尋ねられた際
「内弁である私が直接指します」
と答えてしまい、義持を激怒させてしまいます。慌てた久我通宣は周囲に事情を聞いた上で
「昨日の通りにさせてください」
と義持に懇願するも拒否され、結局右大将職を剥奪され、大納言職も辞退させられ、所領も没収されて丹波国に隠居を強いられました。おまけのような形で、儀式に遅刻した洞院満季、正親町実秀(おおぎまちさねひで:1388~1432)、万里小路時房らも謹慎処分となりました。あまりに理不尽だと思います。
 翌応永23(1416)年1月10日には、関白経嗣以下多くの公卿が年頭の挨拶のため三条坊門第を訪れたところ、義持は北山第に出かけていて留守でした。一同がやむなく引き返したところ、義持は
「私の帰宅を待たずに帰るとは何事か」
と立腹しました。驚いた経嗣は謝罪のため再び訪問しましたが、しばらく対面を許さなかったといいます。かつて謙虚だったはずの義持は、義満と同レベルにまで尊大な人間になってしまったようです。

以前説明した気もしますが、公家の苗字「久我」は「こが」と読みます。理由はよく分かりません。

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