日本人の物語00512【平安末期】壇ノ浦の戦い 田口重能裏切る
屋島の戦いから1ヶ月を経た元暦2(1185)年3月22日。義経は壇ノ浦に向けて出航しました。いよいよ、平家が集結した彦島を叩こうというのです。
3月23日。船上で戦闘準備をしていた梶原景時が、義経に先陣を切りたいと願い出ました。しかし義経は不思議なことに
「先陣は私が務める」
と言い張ります。景時は
「あなたは大将軍であって先陣はおかしい。武士の主にふさわしくない」
と主張しますが、義経は譲りません。
これは景時の主張の方が正しいでしょう。数百程度の兵による小規模な戦闘ならともかく、数千や数万の大軍を指揮する大将が前線に出てしまっては、全体の指揮を執ることはできません。義経は個々の戦闘については天才的な力量を発揮していますが、マネジメント能力には欠けていたように思えてなりません。
義経と景時とは、柄に手をかけてあわや斬り合いかというほどに激しく罵り合いました。周囲に止められて事なきを得ましたが、この先の義経の運命がここに決定付けられました。景時は、義経がいかに傲慢で大将の資質に欠けた人物であるかを頼朝に書き送り、義経の評価はそれによって固まってしまうのです。
一方平家軍はというと、平知盛が田口重能に対して、裏切るのではないかとの疑念を抱き始めていました。態度に違和感があったのでしょう。
知盛は兄の宗盛に対し、
「重能は既に裏切る心づもりだ。斬るべき」
と進言します。しかし宗盛は事もあろうに、田口重能本人を呼んで
「お前は心変わりをしていないか。どうなのか」
と直接尋ねてしまいます。
重能が正直に答えるはずもありません。重能は当然
「全力で源氏と戦います」
と答え、知盛は重能の裏切りに気づいていながら、これを斬ることができなかったのです。
この後、田口重能は平家を裏切り、
「安徳天皇は高貴な舟に乗っていると見せかけて、実際は粗末な舟に乗っている」
という平家の策略を源氏方に漏らしてしまいます。
せっかくの知盛の進言を活かせなかった宗盛もまた、棟梁の資質に欠けた人物であったと言わざるを得ないでしょう。
ちなみにこの田口重能は戦後に源氏方に捕らえられ、主人を裏切った不忠者として火あぶりの刑に処せられたと伝えられています。
