日本人の物語00200【飛鳥】41代持統天皇*
大津皇子が死んでも、24歳の皇太子・草壁皇子はなかなか即位しませんでした。まだ若いので、成人するのを待っていたのでしょうか。しかし24歳ならば即位しても良い年齢と思えます。理由はよく分かっていません。草壁皇子は、天智天皇の娘である阿閇皇女と結婚し、子・珂瑠皇子(かるのみこ:後の文武天皇:683~707)をもうけます。
そうこうしているうちに3年が経ち、持統天皇3(689)年になりました。この年に飛鳥浄御原令(全22巻)が完成しました。近江令に続く史上2番目の法律ですね。
同年4月13日。草壁皇子が死去してしまいます。鵜野讃良皇女としては、大津皇子を殺してまで次期天皇候補として育成してきた息子が死んでしまったわけです。
やむなく、皇太子として孫の珂瑠皇子を立てることとなりました。しかし、珂瑠皇子はまだ6歳であり、中継ぎが必要です。
そこで、鵜野讃良皇女は「孫が大きくなるまでは私が政務をみよう」と決意し、持統天皇4(690)年1月1日に天皇に即位しました。持統天皇です。
珂瑠皇子の教育係には多くの学者が登用され、祖母(持統天皇)と母(阿閇皇女)も懸命に教育に当たりました。さらに、高市皇子が太政大臣に任命され、政務に当たりました。
同年9月1日。庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成されました。庚午年籍に続く日本で2番目の戸籍です。戸籍もまた、国家に必要不可欠なものです。持統天皇は夫の遺志を継ぎ、着々と日本を世界的国家に成長させるべく頑張っているようです。
さらに持統天皇は、これまでにない大規模な都を造営するよう指示しました。唐の実情を見てきた者たちから、長安の様子を聞き、これまで以上の都を造営する必要があると感じたのでしょう。
高市皇子の下見によって、大和三山に囲まれた藤原の地(奈良県橿原市)が選ばれ、工事が開始されました。これを藤原京といいます。ちなみに大和三山とは、耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・天香具山(あまのかぐやま)のことです。
持統天皇8(694)年12月6日。藤原京に都が遷りました。唐にならって、碁盤の目の形に道路を設計した「条坊制」と呼ばれる手法で築かれた日本初の都です。
これまで日本では、天皇が代わるたびに新たな宮殿を築いていましたが、これは現代的な意味での「首都」と一致する概念ではありません。天皇が変わっても動じない政治的・経済的な中心都市としての「首都」という概念は、この藤原京遷都の際に始まったものと考えられます。
なお、藤原京という名称の由来は不明です。この地域が「藤井ヶ原」と呼ばれていたからという説と、藤原不比等(ふじわらのふひと:鎌足の次男:659~720)のおかげで造営できたからとの説があります。
後に政権の中枢を担うこととなる藤原不比等は、この頃から着々と実力をつけていたようです。

