日本人の物語00400【平安後期】忠通と頼長 氏長者を巡る対立
藤原摂関家の内紛が深まる中、久安6(1150)年には決定的な事件が起こりました。
事の始まりは、藤原忠実が長男・忠通に
「頼長に氏長者を譲れ」
と迫ったことでした。忠通は当然にこれを拒否します。その結果、忠実は強硬手段に出ました。忠通を勘当した上で、子飼いの武士・源頼賢(みなもとのよりかた:?~1156)らに忠通邸を襲撃させたのです。
忠実の狙いは、朱器台盤と呼ばれる藤原氏の家宝でした。これは歴代の藤原氏の氏長者にだけ継承されてきた朱塗りの台盤・什器で、氏長者の証なのです。
源頼賢はこの朱器台盤を無理やり奪い、頼長の元へと運びました。このような強硬手段によって次男・頼長が氏長者となりました。
このあまりにひどい実力行使に、朝廷における忠実・頼長父子の評判は地に墜ち、忠通への同情論が広がっていきました。鳥羽法皇にとって、当初は優遇していた忠実・頼長ではありますが、さすがに庇いきれなくなってきます。
さらに翌仁平元(1151)年、藤原頼長の雑色が、藤原家成(ふじわらのいえなり:1107~1154)の家人に陵辱されました。怒った頼長は意趣返しのため、家人に命じて家成の邸宅を破壊します。さすがにやり過ぎです。
ここに至って、鳥羽法皇は頼長に対し憤りを隠さなくなりました。鳥羽法皇は明確に、かつて冷遇していたはずの忠通の方を信任するようになります。
さて、ここからは藤原氏の内紛のみならず、平氏と源氏それぞれの内紛が絡み合って、ひどく話は複雑になってくるのです。ある人物とある人物が対立すると、「敵の敵は味方」とばかりに新たにつるみ始める人物が出てきます。これにより、藤原氏・平氏・源氏の各氏が鳥羽法皇方と崇徳上皇方に分裂することとなりました。
鳥羽法皇と崇徳上皇の対立について、藤原氏、平氏、源氏の誰がどちらに与したかを一覧にまとめておきましょう。このまとめを見ながら以下を読んでいただくと分かりやすいかと思います。
【鳥羽法皇側】藤原忠通(長男)・平清盛(甥)・源義朝(長男)
【崇徳上皇側】藤原忠実(父)・頼長(次男)・平忠正(叔父)・源為義(父)
高校日本史では、これを丸暗記させられます。全くキャラが立っていない人物の名前をひたすら暗記するという苦行を強いられるのです。本稿では、できるだけ各人が何を考え、どのような理由で鳥羽法皇側あるいは崇徳上皇側につくこととなったのかを詳述していきたいと思います。
