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日本人の物語00670【鎌倉中期】90代亀山天皇(大覚寺統)

 康元元(1256)年12月17日。西園寺実氏は娘・公子(きみこ:1232~1304)を後深草天皇に入内させました。実氏の娘が入内するのは、後嵯峨天皇に入内した姞子に続き、これで2人目となります。公子は翌康元2(1257)年1月に中宮となりました。
 せっかく後深草天皇に接近した西園寺家ですが、予測できなかった事態に直面することとなります。というのも、後嵯峨上皇は長男・後深草天皇よりも次男・恒仁親王(つねひとしんのう:後の亀山天皇:1249~1305)の方を寵愛していたのです。長男・次男とも西園寺姞子が産んだ子なのですが、なぜ偏愛が生じたのか定かではありません。
 正元元(1259)年11月26日。後嵯峨上皇が後深草天皇に指示して、弟・恒仁親王に譲位させました。亀山天皇です。
 譲位に不満を抱いた後深草天皇が、
「天皇であった日数を数えると5074日であった」
と名残惜しそうに述べたところ、側室の弁内侍(べんのないし)が
「千代といへば 五つかさねて 七十に あまる日数を 神は忘れじ」
(たった5070日余りの日数であっても神は忘れてはいないでしょう)
「今はとて おりるる雲の しぐるれば 心のうちぞ かきくらしける」
(空から降りていく雲から時雨が降るように、玉座を降りながら涙を流し、思いは心のうちに秘めて暮らしていきましょう)
と詠んで慰めました。
 それにしても、皇位に就いていた日数をわざわざ数えるとは、後深草天皇は皇位にかくも強い執念を持っていたのでしょうか。
 弘長元(1261)年2月。11歳の亀山天皇の中宮に、洞院実雄(とういんさねお:1219~1273)の娘・佶子(きつし:1245~1272)が選ばれました。佶子の読み方は分かっておらず、「きつし」と音読みするほかありません。
 洞院実雄は西園寺実氏の弟です。兄・実氏が後深草天皇に接近して外祖父の座を狙ったのと同様、弟・実雄は亀山天皇に接近して外祖父の座を狙っているわけです。
 実氏は巻き返しを図ります。同年8月、佶子は皇后に移され、実氏の子の公相(きんすけ:1223~1267)が、娘・嬉子(よしこ:1252~1318)を中宮に立てました。ここからは、皇后・佶子と中宮・嬉子の出産競争ということになります。といっても、佶子16歳に対して嬉子9歳ですから、実氏・公相父子にとっては圧倒的不利な状況からの、ひどく気の長い勝負だったと思われます。

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