日本人の物語00318【平安中期】兼家の全盛*
新たに即位した一条天皇は、円融天皇と藤原詮子の間に産まれた子です。そして藤原詮子の父が藤原兼家です。
つまり、久しぶりに存命中の外祖父が誕生したこととなります。これにより兼家の権力はますます高まる結果となりました。
さて、一条天皇の即位式の朝、大事件が発生しました。玉座に血まみれの生首が転がっていたのです。誰の死体だったのかは分かっていませんが、反対派による嫌がらせでしょう。
近習の者がこれを兼家に報告したところ、兼家は返答せず狸寝入りをし始めました。
そしてふっと起きたふりをして「もう準備はできたのか」と尋ねました。即位式が延期になることを防ぐため、報告を聞かなかったことにしたのです。
一条天皇の即位に伴い、従兄の居貞親王が10歳6ヶ月で皇太子になりました。皇太子が天皇より年上という異常事態です。居貞親王は兼家が冷泉上皇に入内させていた娘・超子の産んだ子ですから、これまた兼家の孫にあたるわけで、兼家としては皇太子に皇位が移ったとしても我が身は安泰だというわけです。
兼家は摂政に就任しました。外祖父摂政は藤原良房に続き2人目ということになります。
摂政兼家のエピソードとしては、幼い一条天皇をだっこして紫宸殿の脇戸から「ばあ」と天皇を指し出し、公卿たちを慌ててかしこまらせたとの話が残っています。得意満面な兼家の様子が思い浮かびますが、さすがにやり過ぎでしょう。
天皇の母である詮子は皇太后となりました。そして前々から皇后だった遵子(藤原頼忠の娘)は、皇后の座にとどまることとなりました。「皇后」というと本来は天皇の妻を指しますが、天皇が6歳であるため前天皇の皇后が引き続き「皇后」と呼ばれ続けたのですね。
以前、詮子を差し置いて遵子が皇后となったとき、藤原公任がわざわざ詮子の家を覗きこんで「こちらのお妃様はいつになったら皇后になれますかね」と放言したというエピソードを紹介しましたね。今回は逆になかなか子を産まない遵子が詮子の風下に立たされることとなったわけです。
詮子の女房は仕返しとばかりに、藤原公任に対して「素腹の后はどちらにおいでですか」と皮肉ったといわれています。「素腹」とは子ができないという意味です。執念を感じます。
ちなみに花山天皇の出家により、天皇の側近だった藤原為時(ふじわらのためとき:949?~1029?)が失脚することとなりました。この為時とは紫式部の父に当たります。為時は復権を願って息子たちの教育に腐心するのですが、教養を最も身に着けたのは皮肉なことに娘の方だったというわけです。

