日本人の物語01638【室町/西国/六角征伐】義尚の職務放棄
将軍家のスキャンダルがここまで広まっていろんな人の日記に載っているとは、ひどい話です。
義尚は恐らく両親への不満から、政務を放棄するようになりました。政務といっても幕府内の決裁は全て義政が握っていましたから、せいぜい公家や武家との顔合わせ、挨拶程度の仕事しかなかったわけですが、それすら放棄するようになったのです。
特に年末年始には多くの高官が将軍への挨拶に訪れます。文明12(1480)年から翌年にかけての挨拶は、極めて異例な上に将軍家の権威を貶めるものとなりました。
文明12(1480)年12月の近衛政家の日記によると、政家が年末の挨拶のため将軍御所を訪問したところ、義政だけが出てきて義尚は顔を見せなかったといいます。
翌文明13(1481)年の年始には、義政から公家衆に対して驚きの通達がありました。
「私は富子と喧嘩し、隠居することとなった。それゆえ挨拶は私宛てでなく義尚宛てに行うように」
というのです。推測するに、富子が義政に
「あなたがしゃしゃり出るから、義尚の存在感が薄れてるじゃないの」
と怒ったのではないでしょうか。だからといって、それをそのまま公家衆にぶつける義政もどうかと思います。とりあえず近衛政家も中院通秀も、1月10日の年始の挨拶では義政を避けて義尚にだけ挨拶に行きました。
ところが、義尚は未だに拗ねていたのか、側近を通じた取次によって挨拶を受けるものの、直接対面してくれません。理由は「蚊触(かぶれ)」、つまり皮膚病だというのですが怪しいものです。さすがに誰にも会わずに帰るわけにいかず、公家衆は富子とだけ対面して帰ることとなりました。
義尚の反抗期は続きます。この1月にせっかく伸びてきた髻をまたまた切ってしまったのです。その原因は、義政の愛妾に手を出して怒られたことでした。この愛妾とは徳大寺公有(とくだいじきんあり:1422~1486)の娘ですが、父子で同じ女性を取り合い、しかもそれが洛中に広まってしまったわけで、将軍家の権威はひどく傷ついたことでしょう。
結局、義政は引き続き幕政上の決裁を行い、富子が儀礼的な挨拶などを代行する状態が続き、義尚は人前にほとんど姿を見せなくなりました。
富子は現代人からのみならず、同時代の人物からも悪女として罵られていますが、その原因は「女だてらに」将軍の代行を務めたことでしょう。将軍職の代行も、職の斡旋の際の金品の受領も、関所の設置も、管領などの男性の権力者が行えば普通に受け入れられたことだったでしょうが、当時は女性らしからぬ振る舞いと受け止められたようです。
そして義尚はあろうことか、天皇への年始の挨拶もボイコットしてしまいました。やむなく3月21日になって義政が参内し、将軍の代理人として天皇への挨拶を済ませたそうですが、年始の挨拶にしてはだいぶ遅いですね。
父も子も頼りなく、政治的センスに優れているのは母だけのようです。
