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日本人の物語00805【鎌倉末期】鎌倉幕府滅亡*

 こうしてあれほど強大だった鎌倉幕府は滅亡しました。後醍醐天皇による二度目の倒幕計画が発覚してから2年1ヶ月後、足利高氏が篠村八幡宮に願文を提出してから僅か15日後のことでした。
 平氏政権が壇ノ浦で滅亡するのは、以仁王が令旨を発してから5年後のことですから、鎌倉幕府の滅亡の早さは異常といえます。
 幕閣一同が自決した「東勝寺」は、その後廃寺となりました。現在はJR鎌倉駅から東に15分ほど歩いた山中にその跡があり、高時たちが切腹したという洞窟「腹切りやぐら」があります。土砂崩れのおそれがあるため、長年に渡って見学不可となったままです。
 一方、高時らの墓がある場所は鶴岡八幡宮から程近い「宝戒寺」であり、元々は2代執権北条義時の館があった場所と伝わります。
 『太平記』によると、この戦いで戦死又は自害した者は6千人余りといいます。東勝寺の跡からは死体は発掘されていませんが、海岸から2千体の白骨が出土したほか、近くの蔵からも埋葬されたとみられる多くの白骨が発見されました。さらに、昭和40年代の宅地開発では「元弘三年五月廿八日」との銘が記された五輪塔が発見され、まさに5月22日の東勝寺合戦の初七日に当たる日付であったことから、太平記に記載された鎌倉幕府滅亡の日付が真実であったことが分かりました。
 さて、幕府滅亡後まもなく、新田軍による北条の残党狩りが行われ、残党を捕らえた者に褒賞が与えられる旨が発表されました。
 高時の嫡男・邦時を託された五大院宗繁は、邦時を裏切って褒賞を得ることを決めます。宗繁は邦時を言いくるめて別行動をとりつつ、自ら新田軍の船田義昌に邦時の所在を密告しました。これにより邦時は5月28日に捕縛され、翌29日に鎌倉で処刑されることとなりました。
 その後、宗繁の裏切りは人々から糾弾され、宗繁は行方不明となりました。逃亡中の宗繁に手を差し伸べてくれる人はおらず、宗繁は最期は乞食のようになって路上で餓死したといわれています。
 なお、幕府滅亡に当たって不思議なことがあります。それは、鎌倉幕府最後の征夷大将軍である守邦親王が、滅亡の際にどこで何をしていたのか、記録がなく分かっていないということです。
 そもそも幕政に一切関与していなかったお飾りではありますが、幕府内の最重要人物の動向が一切伝わっていないというのは驚きです。それほどに将軍の存在感がなかったということでしょう。

東勝寺跡。「腹切りやぐら」がこの奥にあるが、これ以上進むことはできない。2022年9月23日撮影。

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