日本人の物語01006【南北朝前期】毛利荘湯山事件
室町幕府ナンバー2の直義が南朝と手を結んでしまいましたが、さてここで問題です。この翌年には幕府の更なる大物が南朝と手を結ぶのですが、それは一体誰でしょう?
洞院実世と二条師基に続いて発言したのは、北畠親房でした。
「直義の主張を受け入れて同盟を結んだならば、必ず帝の政治を再び始めることができるだろう。帝の徳が天下に広まりさえすれば、逆臣らを滅ぼすことができるだろう」
重鎮たる親房の話で大勢は決しました。正平5/観応元/貞和6(1350)年12月13日、南朝から直義への回答がなされました。
「勅命を受けたので、そなたに申し伝える。故きを温ね、新しきを知ることこそ、優れた人間の行うところである。戦乱を収めて正しい道に復することこそ、良将の率先して行うべきことである。そなたが過去の過ちを認めて帝の命令に従おうとしていることを、帝は大変喜ばれている。早く正義の兵を起こして天下を鎮める策を講じなさい。帝の仰せは以上である」
この南朝方の返答について、『太平記』は「呆れた世の中である」と述べています。何らの一貫した思想もなく、単に「尊氏憎し」という理由で連携を決めた両者の態度を、『太平記』は非難しているのです。
確かに、北朝の棟梁は征夷大将軍たる尊氏ではあるものの、内政のほとんどを行っていたのは直義でしたから、南朝を最も苦しめていたのは直義その人なのです。その直義と手を組むとは、あまりに無節操です。
直義と南朝の同盟が結ばれたとの情報は、たちまち全国に広がりました。北朝直義党は、次々と大和国の直義の元に集まってきます。大物武将としては石塔頼房の名が挙げられます。
この影響は関東にまで届きました。前述のとおり、関東では常陸国で発生した上杉能憲の反乱に対し、足利基氏・高師冬が鎮圧に向かっていたところでしたね。12月1日、能憲の父に当たる上杉憲顕が
「基氏殿・師冬殿にお味方し、我が息子を鎮圧いたします」
と言って上野国(群馬県)に到着したのですが、直義と南朝の同盟が成立したことを知るやいなや、上杉憲顕は突如として裏切り、基氏・師冬軍を包囲し始めたのです。
12月25日。基氏・師冬はどうにか包囲を突破して相模国の毛利荘湯山(神奈川県厚木市)まで逃亡しましたが、今度は味方であるはずの石塔義房(いしどうよしふさ)に裏切られて襲撃されます。義房は頼房の父に当たりますが、この父子は揃って直義の反乱に加担することを決めたのでした。
師冬は辛くも甲斐国(山梨県)に逃亡したものの、10歳の基氏はなすすべもなく生け捕りとなってしまいました。
基氏は石塔義房の手で丁重に鎌倉に連れ戻され、これ以降、基氏の側近は直義党で固められました。反乱の鎮圧どころか、本拠地たる鎌倉が直義党の手に落ちてしまったのです。
