日本人の物語00691【鎌倉中期】持明院統と大覚寺統 両統迭立の始まり
文永の役の話が終わり、続いて弘安の役について述べるべきなのですが、この2つの戦役の間の出来事として、持明院統と大覚寺統の対立が始まったことについて述べなければなりません。
後嵯峨法皇の死後、長男・後深草上皇と次男・亀山上皇の対立が深まったことは既に述べました。
亀山上皇の子・後宇多天皇が即位するに及び、後深草上皇は悲嘆に暮れていました。このままでは皇位は弟の家系に奪われ、自らの子孫に何も残してやれません。
建治元(1275)年になって、
「後深草上皇が世をはかなんで出家するらしい」
との噂が聞こえてきました。上皇とその従者たちが一斉に出家するかもしれないというのです。
その噂を聞いた時宗は、どうにか両者の仲を取り持とうと考えました。亀山上皇を説得し、後深草上皇の子・煕仁親王(ひろひとしんのう:後の伏見天皇:1265~1317)を立太子させ、
「皇位は決して亀山上皇の子孫が独占するものではない」
ということを内外に示したのです。そのおかげで、後深草上皇は出家を思いとどまることとなりました。
この兄・後深草上皇とその子孫の系統を「持明院統」と称します。のちに煕仁親王が持明院(京都市上京区)に一時期居住したことに由来する名称です。
一方、弟・亀山上皇とその子孫の系統を「大覚寺統」と称します。亀山上皇の子である後宇多天皇が、出家後に大覚寺(京都市右京区)に居住したことに由来する名称です。
持明院統と大覚寺統、二つの系統が並び立つ体制のことを「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼びます。
時宗の配慮により、短期的には両者の融和が実現しましたが、持明院統と大覚寺統のどちらが皇位を独占するのか決めなかったことで、長きに渡る混乱が生じることとなります。詳しくは後述しますが、持明院統が後に「北朝」となり、大覚寺統が後に「南朝」となって、南北朝の動乱が生じることとなるのです。
してみると、南北朝動乱の産みの親は、明確な遺言を残さなかった後嵯峨法皇ともいえますし、あるいは良かれと思って双方の顔を立てようとした北条時宗ともいえそうです。
