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日本人の物語01530【室町/東国/享徳の乱】12歳の総大将

最近、上杉憲実の新しい伝記が出版されたのですが、迷った挙句購入は見送りました。ただでさえ月に十冊以上購入しているので節約しなけあなりません。

 関東管領が不在の中、文正元/享徳15(1466)年閏2月4日には北根原(埼玉県鴻巣市)で合戦がありました。成氏にとっては、敵の総大将が不在のうちに叩いてやろうという気持ちがあったのかもしれません。史料不足のため勝敗は不明です。
 時を同じくして、閏2月6日に山内上杉憲実が亡くなりました。場所はなんと、長門国大寧寺(山口県長門市)です。関東管領を長年務めていた山内上杉憲実が、なぜ長門国などに住んでいるのでしょうか。
 憲実といえば、永享の乱において主君たる足利持氏を殺害してしまい、それを悔やんで隠居した人物でしたね。息子が関東管領を継ぐことも許さず、長男憲忠が関東管領に就任したときは義絶して抗議したほどでした。
 その憲忠が成氏に殺され、享徳の乱が発生したことを知った憲実はどんな思いだったでしょうか。憲実は息子の仇を取るどころか、この戦乱に関わることを一切避け、諸国遍歴の旅に出ました。次なる関東管領に次男・房顕が就任したことも快く思っていなかったでしょうが、もはや抗議すらしていません。
 享徳の乱が長引く中、憲実は長門国大寧寺に落ち着き、晩年には長門守護・大内教弘と交流していました。10歳年下の教弘と義理の父子関係を結んだほど良好な関係を構築したようです。
 そして奇しくも、2月12日に次男・房顕が死去した翌月の閏2月6日に憲実は亡くなりました。恐らく次男の死の知らせも到着していなかったでしょう。権力を欲しがらず、戦乱を避けて隠遁した憲実の生涯はなかなかに悲劇的でした。
 さて、房顕の後任たる関東管領の座をめぐって、長尾景信は相変わらず顕定を欲しがりますが、房定は息子の出馬を断り続けました。長尾景信は遂に幕府に勝手に申請し、6月3日には幕府から房定に対し、息子・顕定を関東管領とするよう命令が下りました。幕府の命令とあらば房定も断るわけにいきません。
 一方、『松陰私語』という史料には別の経緯が記されています。長尾景信の命を受けた岩松家純が、房定を説得するべく何度もやり取りを続け、最終的には房定の陣所に乗り込んでいって、
「承知してくれないならこの場で年月を送ろうか」
と述べた結果、遂に房定が折れたというのです。しかし『松陰私語』は岩松家純に仕えた僧・松陰(しょういん)が残した回顧録ですので、岩松家純の活躍を実際以上に大袈裟に描いている可能性があり、話半分に読む必要があります。
 10月に顕定が関東管領に就任し、享徳の乱の上杉方の総大将は、僅か12歳の少年となりました。

「この場で年月を送ろうか」という脅し文句、良いですねえ。私も使ってみようかな。

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