日本人の物語01159【南北朝後期】基氏死す
鎌倉公方にはなぜか短命な人物が多いようです。
正平22/貞治6(1367)年4月26日。初代鎌倉公方・足利基氏は27歳の若さで死去し、その職は9歳の氏満(うじみつ:1359~1398)が継ぐこととなりました。
『細川頼之記』によると、基氏は死の床で
「新田義宗・脇屋義治らこそが東国の騒動の元凶である。東国武士の中には、彼らに内通しておきながら我らの味方を装っている者がいる。義宗・義治らは私の死後一年以内に乱を起こすであろう。奴らを葬って上洛できなかったのが心残りだ」
と遺言したといいます。
基氏はまだ幼い時分に鎌倉府を任され、その治世のほとんどは関東執事たる上杉憲顕や畠山国清に牛耳られていたため、どのような個性を持った政治家だったのかいまいち分かっていません。ただ、直義に私淑して直義の治世を理想としていたことが分かっている程度です(01129回参照)。
説話集『塵塚物語』には、基氏の直義に類似した性格がよく表れているエピソードがあります。基氏がフナの調理を料理人に命じたところ、そのフナが十分焼けていない状態で提供されてしまい、腹を立てた基氏は罰として裸のまま縁側で正座するよう料理人に申し付け、出かけてしまいました。帰宅後にまだ裸で正座している料理人を見た基氏は、自分の下した処分が厳しすぎたと反省したというのです。
気に入らない家臣を次々と殺してしまう主君もいる中で、基氏の処分はさほど厳格というには当たらず、この程度で後悔して反省するとは比較的穏健な人物と思われます。
一方で、死の直前である4月2日、基氏は南朝方に内通した疑いのある家臣・鎌倉左京進と安藤九郎なる人物を呼び出して誅殺させたとの記録もあります。苦林野の戦いにおける豪胆ぶりといい、厳しく締めるところは締めていたようです。
弟の死を受けて将軍義詮は、側近の佐々木道誉を関東に下向させました。恐らく義詮は、鎌倉府の目付役である上杉憲顕の仕事ぶりに満足していなかったので、信頼のおける道誉を送り込んだのでしょう。
義詮と基氏の兄弟仲は良好だったのか、冷え込んでいたのかも意見が分かれるところです。直義嫌いの義詮と直義びいきの基氏ですから、さほど良好ではなかったでしょうが、本格的な対立には至りませんでした。しかしこの後、室町幕府と鎌倉府の関係は代替わりを経るごとに悪化していくこととなります。
基氏の子の「氏満」という名自体、京への対抗心が感じられる名です。というのも、父・基氏と従兄・義満から一字ずつもらうならば、将軍義満を尊重して上につけ「満氏」と名乗るべきなのです。あえて「氏満」としたのは、従兄より父を重視するとの宣言なのでしょうか。
なお、幕府側で「満氏」と書かれた文書も現存します。単なる誤りか、あるいは将軍を公方の下に位置付ける「氏満」などという名は認めないとの幕府方の意志表示かもしれません
