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日本人の物語01554【室町/西国/応仁の乱】船岡山の戦い

時々、苗字しか分からない登場人物が出てきますね。

 骨皮道賢を討って物資の補給を回復した西軍は、またもや驚きの一手を放ちました。遂に東軍の本拠を攻撃したのです。それは将軍義政も後花園法皇も後土御門天皇も居住する将軍御所でした。
 応仁2(1468)年4月15日、総大将格の山名宗全が自ら兵を率いて将軍御所を襲撃しました。もしかすると、西軍諸将らが将軍や法皇の居場所に攻め込むことをためらい、やむなく宗全が自ら指揮を振るったのかもしれません。しかしこの攻撃は失敗に終わりました。5月2日には、細川成之が中御門室町の斯波義廉邸を攻めますが、これも失敗に終わります。
 この5月には、北加賀守護をめぐる赤松家臣・小寺氏と富樫家臣・額(ぬか)氏の衝突もありました。宗全は額氏を支援したものの、額氏は敗死しています。
 乱勃発から1年以上が経った7月10日になって、義政は斯波義廉の管領職を解き、細川勝元に与えることとしました。敵である義廉の管領職が未だに解かれていなかったことが驚きです。以前述べたように、義政は長期戦を予期しておらず、すぐに仲直りできると思っていた節がありますが、遂に長期戦を覚悟したのかもしれません。
 あわせて、斯波義敏・義寛父子に斯波家の当主の座と3ヶ国(越前・尾張・遠江)の守護職が与えられました。
 一方、西軍では依然として斯波義廉が当主であり3ヶ国の守護であり、引き続き管領であると位置付けられました。東軍の人事には従わないというわけです。
 人事を一新した東軍は、攻勢に入ります。8月24日には丹波守護代・内藤元貞(ないとうもとさだ)の軍が嵯峨・仁和寺一帯に討ち入り、西軍60名を討ったと記録されています。丹波は勝元の領国で、内藤は細川家臣です。
 嵯峨が内藤軍に占拠されたとなると、西軍も黙ってはいられません。嵯峨とは京の西部にあり、西軍からみると正面に東軍主力、後方に内藤軍が位置しており挟み撃ちとなってしまいます。これを防ぐべく、9月3日、西軍の斯波義廉・畠山義就・大内政弘らが内藤軍に対応するため嵯峨に出陣しました。
 しかし、これは東軍の陽動作戦でした。西軍の主力がみんな西へ行ったことに乗じて、細川勝元の主力軍が西軍拠点の一つである船岡山を攻撃したのです。船岡山に詰めていた一色義直・山名教之は不意を突かれて総崩れとなり、9月7日には陣地を捨てて敗走していきました。しかし東軍も船岡山を長期に渡って占領し続けることはできず、結局大内政弘が築いた城を焼いただけで去っていくこととなりました。
 この嵯峨での内藤軍と西軍の戦いにより、天龍寺が焼失しました。京都五山第二位の相国寺に続き、第一位の天龍寺までもが失われたのです。

天龍寺も相国寺も立派な寺だったでしょうが、武将たちは容赦ないですね。

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