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日本人の物語01665【室町/西国/六角征伐】義尚死す

結局、六角高頼は幕府全体を敵に回した戦いに勝ち切ったといえます。
(一部、義尚を義材と記載する誤記があったので訂正しました。)

 将軍義尚の鈎の陣への滞在が長期化する中、長享2(1488)年4月28日に後土御門天皇の生母・大炊御門信子(おおいみかどのぶこ:1411~1488)が死去しました。
 天皇が喪に服する間、「貢馬御覧(こうばごらん)」という献上された馬を見物する儀式は中止するのが慣例です。ところが天皇はこれを強硬に開催しようとして、中御門宣胤を貢馬奉行に任命しました。天皇がかくも親不孝な行動をするとは理解に苦しみますが、貢馬御覧開催を盾に将軍家から開催費用を工面させ、それを別の目的に転用する狙いだった可能性があります。
 朝廷はもはやなりふり構わず幕府から金をせびり取ろうとしています。そのくらいしないと生きていけないほどに荘園からの年貢が入って来なかったのでしょう。
 幕府がこれにどう対処したのか分かっていませんが、義尚は鈎に在陣しているため、こうした交渉には一切参画しなかったでしょう。結局この手の難題は富子の手腕で解決していたものと思われます。
 その証拠に、義尚が討伐対象と名指ししていた美濃守護・土岐成頼が、長享2(1488)年12月に富子の取りなしにより幕府に出仕して来ました。将軍と守護の対立緩和という重要な仕事を富子が見事にやってのけたのです。
 義尚は政務においても存在感を発揮できず、軍事においても六角討伐という目的を達せられないまま、鈎の陣で病に臥せってしまいました。酒の飲み過ぎと言われています。
 義尚危篤を知った富子は、もはや母子喧嘩をしている場合ではないと、長享3(1489)年3月19日に鈎へと出向きました。容態がいよいよ危ないと知った細川政元も、3月24日には鈎に向かいます。
 そして3月26日、義尚は鈎の陣で病没しました。25歳の若さでした。
 3月30日に義尚の遺骸が京へ運ばれました。政元が棺の行列の一番を務め、富子は輿の中で声も惜しまず泣いたといいます。息子の死を知った義政は
「埋木の 朽ち果つべきは 残りいて 若枝(わかえ)の花の 散るぞかなしき」
と詠んで息子の死を悼みました。若い息子が先に死に、朽ち果てるべき老いぼれの自分が生き残ったことを嘲ったのです。なお、京都の有名な五山の送り火(大文字)は、義尚を弔うために富子が始めたとの説もあります。
 義尚という庇護者を失った結城政胤・尚豊兄弟と二階堂政行は失踪し、あれほど影響力を誇示した評定衆はあっという間に解散しました。

五山の送り火云々の件はいろんな本に記されていますが、初出が何なのか分かりませんでした。

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