日本人の物語01672【室町/西国/六角征伐】政元の政権構想
この最近ずっと、東国と西国を別々のチャプターとして設けてきましたが、今回珍しく東国と西国がつながります。
義材の治世が始まったものの、三管領筆頭の細川政元は相変わらず沈黙を守っており、距離を置いています。
延徳3(1491)年2月12日。政元は九条政基(くじょうまさもと:1445~1516)の末子を猶子(養子)としました。この猶子は後に細川澄之(ほそかわすみゆき:1489~1507)と名乗る人物で、政元の後継候補の一人となります。
この養子縁組は、政元と清晃との縁を深めるためだったと考えられます。というのも、清晃の母と澄之の母は姉妹なのです。政元は前述のとおり「魔法を使えるようになりたい」と言って女性との交わりを絶っていましたから実子はいません。「猶子」とは相続権のない養子という意味ですが、とはいえ将来的には家督相続の芽を期待する声もあったはずです。
3月3日には、政元は東国巡礼のため京を出発し、3月21日に越後に滞在しました。越後上杉房定と会って情報交換したようですが、政元はさらにそこから伊豆に足を伸ばし、堀越公方政知と直接会おうとしたとの説があります。ところが4月3日に政知は死去し、会見は叶いませんでした。政元はやむなく4月28日に帰洛しました。
この政元の東国行きは、政元が堀越公方政知の子・清晃を将軍に据えることで幕府による関東への影響力を復活させようとしたことを示唆しています。
嘉吉の乱以降、東国と西国はまるで別の国であるかのように、別々の政治動向を示していました。東国で享徳の乱が発生しているのに、幕府は兵を送り出すこともなく静観し、応仁の乱という別の戦いを起こしていました。そのため幕府の関東への影響力は減退し、関東管領上杉氏からの様々な申請に承諾を与えるばかりとなりました。
事実、この頃東国と西国で書状のやり取りはあったものの、政府高官で東西を行き来した人物は一人もいません。政元ほどの政府高官が越後を訪れたのは非常に久しぶりです。
つまり政元は東国と西国が分裂した状況を憂い、堀越公方政知と連携することで全国に下知できるかつての幕府の姿を取り戻そうとしたと考えられます。しかし政知の死去によってその目標は潰えたのです。
政元はそれでも清晃の将軍就任にこだわり、義材の失脚を待つようになりました。
政元はその一方で、西国についても自らの意向を徹底させるべく戦乱を惹起しています。備中守護・細川勝久が何らかの理由で政元と対立したため、政元は備中守護代・庄元資に命じて勝久を攻撃させたのです。庄元資は金川城(岡山県岡山市)を拠点とする松田元藤(まつだもとふじ)と連携して勝久軍を破り、守護の蔵から略奪を働きました。これを備中大合戦といいます。
備中では守護の力が衰え、国人が好き勝手に他領を切り取る戦国時代となりました。政元のせいで備中は、信濃・三河と同様の無法地帯と化したのです。
備中大合戦、というなかなかインパクトのある名称がついた戦いですが、知名度は全然ですね。
