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日本人の物語00332【平安中期】彰子入内

 藤原実資の日記『小右記』には、長保元(999)年のある出来事が記されています。
 花山法皇が熊野三山への巡幸を発案し、藤原実資に計画を指示したのですが、これを聞いた一条天皇は
「地方に迷惑がかかるから」
と言って、中止するよう要請しました。実資は、花山法皇と一条天皇の間を何度も往復させられた挙句、結局中止になったというのです。役人の仕事はいつの世も大変そうですね。
 同じ長保元(999)年。元子の想像妊娠騒動の余波がさめやらぬ中、今度は定子が妊娠しました。二度目の妊娠です。
 一度目は女子であったため、今度は男子の出産が期待されていました。定子は里帰りして出産に備えることとなったのですが、その里帰りの日に合わせて、道長は宇治の別邸に公卿らを招きました。
 公卿らが道長の宴に参加したため、定子を見送る者は誰もいなかったといいます。道長の嫌がらせには本当に陰湿なものがありますね。
 11月7日。定子が敦康親王(あつやすしんのう:999~1019)を出産します。男児誕生と聞いて、道長は相当に悔しがったことでしょう。
 道長としては、一条天皇にどうにか娘を嫁がせたいわけですが、その上で最大の障壁が姪・定子の存在なのです。定子は長徳の変によって落飾したわけですが、また内裏に呼び戻され、引き続き天皇の寵愛を受けています。
 長保元(999)年12月1日。太皇太后・昌子内親王が死去しました。これによって后の位に空席が出たことになります。これを契機に、道長は娘の彰子(あきこ:988~1074)を立后させるため動き始めます。
 まずは立后の下準備として、道長は彰子を入内させました。このとき一条天皇19歳、定子22歳、彰子11歳です。11歳の彰子が19歳の天皇の寵愛を受けることなどできるのでしょうか。
 しかも、一条天皇の正室にはあの定子が中宮として就いているのです。天皇の定子に対する寵愛は、それはそれは深いものでした。その定子がいる限り、彰子に正室になれる芽はなさそうなのですが、一体道長はどうするつもりなのでしょう。
 道長はここで、公卿らがあっと驚く行動に打って出るのです。それは「中宮と皇后を別々に立てる」という、かつて道隆が使った方便でした。

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