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日本人の物語01330【室町/義持期】称光天皇危篤

どうも後小松上皇が称光天皇に冷たいんですよ。まあ世の中にはそういう父子もいますよね。

 応永32(1425)年は九州情勢が大きく動く年でもありました。博多港の権益をめぐって少弐氏と渋川氏がかねてより争っていたところ、この年、九州探題・渋川義俊が少弐満貞・菊池兼朝(きくちかねとも:1383~1444)の猛攻により博多を追われたのです。幕府としては捨て置けない事態です。
 7月13日。幕府は少弐満貞と菊池兼朝を鎮圧するため、大内盛見を派遣しました。盛見は前述のとおり義満に逆らって唯一生き延びた武人であり、西国に下向するのは15年ぶりです。盛見は見事に期待に応え、10月に少弐満貞・菊池兼朝軍を鎮圧しました。
 さて義持は、例によって上皇・天皇の相談役としての仕事に忙殺されていました。7月25日に称光天皇が人事不省に陥り、慌てて参内した義持は後小松上皇と会見し、皇位を誰に継承させるか話し合いました。もちろん選択肢は伏見宮彦仁王しかないのですが、称光天皇の手前、それは内密にしなければなりません。
 7月29日。重篤の称光天皇が義持を呼び、
「母・日野西資子に院号を宣下したい」
と言い出しました。平安時代に天皇の母に院号を宣下するのはよくあることでしたが、近年は例がありません。天皇の意を受けた義持が後小松上皇に図ったところ、上皇は
「卒爾(軽率な行い)である」
と例によって反対です。なぜか上皇は天皇にとことん厳しいのです。
 しかし、死の床にある天皇の最後かもしれない願いを聞き届けないわけにいきません。義持は必死に上皇の説得を重ね、遂に日野西資子に准三后(皇后と同等という趣旨の尊称)の宣下と「光範門院」という院号の宣下が決まりました。義持は死にゆく天皇に最後のはなむけを贈ったのです。
 8月1日。義持は「もはや一刻の猶予もない」と考え、彦仁王を立太子すべしと上皇に説き、その同意を得ました。譲位の準備が慌ただしく進められました。
 義持が譲位の準備に追われていたこの日の夜、後小松上皇はなぜか息子が呼びたがっていた琵琶法師を呼んで平家物語を披露させたり、双紙(絵本)を読んだりして楽しんでおり、周囲を呆れさせました。さらに側近には
「天皇の病状の一進一退をいちいち報告する必要はない。はっきりしたら報告しなさい」
と指示しており、父の子に対する態度としてはあまりに薄情です。
 翌8月2日、番狂わせが起こります。天皇の容態が持ち直してきたのです。譲位の準備は一旦取りやめられました。そして8月5日に称光天皇はほぼ全快しました。一体何のための院号宣下だったのかと、義持は複雑な思いに駆られたに違いありません。
 かねてより病弱だった称光天皇の生命力は、意外にタフなものでした。義持も、まさか自分が天皇より先に死ぬことになるとは夢にも思わなかったでしょう。

「義持が称光天皇より先に死ぬ」とネタバレしてしまいましたが、ミステリーやサスペンスではないのでまあ良いですよね。

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