日本人の物語01485【室町/西国/大乱前夜】河内寛正合戦始まる
畠山義就の「いい話」が出てくるのですが、果たして史実なのかどうなのか。
信貴山城に立て籠もる義就軍を討つべく龍田城で準備する政長軍でしたが、なかなか味方が集まらず攻めあぐねていました。それを見て取った義就軍は、今こそ好機とばかりに討って出ます。
長禄4(1460)年10月10日。義就の命を受けた越智家栄が龍田城を攻撃しました。政長方の筒井順永と成身院光宣が急いで龍田城の救援に向かい、越智軍を襲います。不意を突かれた越智軍は、神奈備山(奈良県明日香村)に逃れました。
勢いに乗った政長方は神奈備山を急襲し、勝利を収めます。敗北の知らせを信貴山で受け取った義就は、このままでは危ないと考え、嶽山城(だけやまじょう:大阪府富田林市)へと逃れました。
こうして大和での戦いは政長の勝利に終わり、ここからは河内を舞台とした戦い「河内寛正合戦」が始まります。
これ以降の戦況は、情報が入り乱れていて分かっていないことが多いのですが、簡単にまとめると
「幕府が多くの武将を投入し、成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信ら政長方が必死に戦ったにもかかわらず、義就は3年も嶽山城で持ちこたえた」
といったところです。この間、義就方が攻勢に転じた際に生け捕った筒井順永の配下の兵について、義就が
「一人助けたところで何の影響があろうか」
と述べて食事まで与えて解放したとのエピソードもあり、こうした話が流布されるにつけ、世間では義就の評判が大いに上がっていきました。それに反比例するように、義就討伐を図る畠山政長と細川勝元の評判は落ちていきました。
少し前の閏9月、細川勝元邸の門に、足が一つしかない鉄輪が碁盤の上に置かれている落書が描かれました。本来は足が三つあるべき鉄輪が一つ足になっているので、これは斯波・細川・畠山の三管領のうち二家が内紛によって衰退したことを示し、「次は細川家の番だ」という揶揄が含まれているわけです。つまり民衆はアンチ勝元で義就支持なのです。
一説によると、義就が捕虜を解放した話を聞いた山名宗全は「敵ながらあっぱれなやつ」と義就を気に入り、後に宗全が勝元を見限って義就と組むきっかけになったといわれています。事実かどうかは分かりません。
この話が事実かどうかは別として、勝元と宗全の関係は確かに悪化していました。というのも、10月には宗全の嘆願により富樫成春が赦免されたのです。勝元が富樫泰高を援助していると知っての行いですから、当然両者の関係は大きく悪化しました。
斯波・畠山ではお家騒動が起こっていますが、細川でお家騒動が起こるのはこの約50年後のことです。
