日本人の物語01121【南北朝後期】康安の政変 願文は本物か
佐々木道誉のやってることは、初期の鎌倉幕府で北条氏がやってきたことと似ている気がしますね。
佐々木道誉はこの願文をしばらく預かりたいと言って、志一を家に帰します。翌日、道誉はこの願文を政所執事・伊勢貞継(いせさだつぐ:1309~1391)のところに持っていき、
「これをご覧下さい。清氏の隠謀が明らかになりました。志一上人は将軍を呪詛しております。清氏の自筆自判の願文があることが明らかになった以上、もはや疑いありません。これを急いで将軍に見せて下さい」
と説明しました。
伊勢貞継はこの願文を見て眉をひそめました。筆跡は誰のものか分かりませんが、花押は間違いなく細川清氏のものです。とりあえず預かったものの、本物かどうか分からず、そう軽率に将軍に見せるわけにもいきません。
しばらく経ったところで、たまたま将軍義詮が病気になり、祈祷の効果もなく頭痛がひどくなってきたというので、道誉が急いで謁見して、
「先日、伊勢に預けた清氏の願文はもうご覧になりましたか」
と尋ねました。義詮がまだ見ていないと知ると、道誉は
「ご病気はあの願文のためでしょう。清氏は将軍を呪詛しているのです」
と言って、急いで伊勢を呼び寄せ、例の願文を義詮に見せました。
その後しばらくして病気が回復したので、義詮も
「なるほど清氏の呪詛は疑いなかった」
とすっかり信じてしまいます。
さらにダメ押しとして、義詮が石清水八幡宮の神官を呼んで尋ねたところ、
「当社にも細川殿から願文と神馬が一緒に送られてきました」
というので、その願文を取り寄せて確認したところ、同じことが書いてありました。
それにしても、この時代の宗教者には個人情報の保護という意識はないのでしょうか。願文は相当高度な秘密だろうと思うのですが、他人に言われて簡単に差し出してしまうのはどういうわけでしょう。
なお、後に室町幕府の重臣として活躍する今川了俊は、自らの回顧録である『難太平記』に、
「この願文は道誉が清氏を貶めるために作った偽物である」
と書いており、同時代の人々もそう疑っていたことが分かります。道誉といえば、山名時氏・師義父子が幕府を離反する原因を作った人物でもあり、機会があれば幕府高官を粛清しようと画策していたものと思われます。
