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日本人の物語00432【平安後期】80代高倉天皇

 平家と敵対的な松殿基房が摂政となったわけですが、一方で清盛にとって大きな前進がありました。永万2(1166)年10月10日、後白河上皇と平滋子の間に産まれた子・憲仁親王が立太子したのです。
 5年前、この憲仁親王を立太子しようと急いだ平時忠は、計画が露見して二条天皇の怒りを買い、解官されてしまったという事件がありました。しかし清盛は無理をせず、ゆっくりとチャンスを待ったのです。その甲斐あって、後白河上皇の機嫌を取り続けた清盛は、かくも大きな成果を得たわけです。
 清盛の快進撃は止まりません。11月11日には内大臣となります。武家出身の者にとっては前代未聞の破格の人事ということで、大いに驚かれました。
 そして遂に仁安2(1167)年2月11日、清盛は右大臣・左大臣を飛び越して、最高権力者の座・太政大臣に就きました。職員令に
「太政大臣には並の人を任命してはならない。適格者がいない間は空席にすべき」
と書かれているように、太政大臣とは常駐の役職ではなく、特別な場合にしか発令されません。9年前には公卿に列したことで驚かれていた清盛でしたが、今や公卿の中でも並ではない別格の人間であるとの認識が示されたのです。
 ちょうど1年後の仁安3(1168)年2月11日には、清盛は家督を長男・重盛に譲って出家し、表向きは政界から引退することとしました。とはいえ、実際には清盛は隠然たる権力を行使し続けました。
 その8日後に当たる2月19日、清盛にとって待ちに待った日がやって来ました。3歳の六条天皇が譲位し、6歳の憲仁親王が即位したのです。高倉天皇です。
 清盛にとって、妻・時子の妹・滋子が産んだ平家の血を引く天皇が誕生したというわけです。
 この平家の血を引く高倉天皇の即位に、公然と不快感を示す公卿がいました。11月に行われた高倉天皇の即位大嘗祭で、内大臣にして右大将の源雅通(みなもとのまさみち:1118~1175)と、大納言にして左大将の藤原師長(ふじわらのもろなが:1138~1192)の2名が、儀式を途中で退出したのです。後白河上皇は激怒し、2人を解官しました。後白河にとっても、寵姫・滋子が産んだ子が皇位に就いたことは大いなる喜びだったわけで、これに反対する者を許せなかったということでしょう。
 清盛の権勢は最盛期を迎え、念願だった貿易立国に向けた政策を進めていきます。この頃から清盛は福原(兵庫県神戸市)の別邸を徐々に本拠とするようになり、福原の港を修築し、瀬戸内海を介した日宋貿易を指揮するようになります。

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