日本人の物語01299【室町/義持期】上杉禅秀の乱 禅秀自害
戦乱はここで終結なんですが、これが後々まで尾を引くことになります。なんなら、関東に戦国時代が到来するきっかけは禅秀の乱にあるとさえ言えるかもしれません。
持氏方の一色・二階堂は軍勢を立て直し、応永24(1417)年1月7日に世谷原で再び禅秀軍と相まみえました。ここで持氏方は逆転勝利し、そのまま敗走する禅秀軍を追跡して鎌倉へとなだれ込みます。
鎌倉は陥落し、1月10日には首謀者たる犬懸上杉禅秀と足利満隆・持仲父子が鎌倉雪ノ下で自害しました。1月11日には山内上杉憲基が鎌倉入り、1月17日には持氏も鎌倉入りを遂げ、禅秀の乱は3ヶ月余りでようやく鎮圧されたのでした。禅秀に加担していた山入与義らは国安城(茨城県常陸太田市)に敗走していきました。
その頃、京では将軍義持がクーデターに加担していた重臣たちとどうにか関係修復を図ろうと模索していました。義持のスケジュールは次のとおりです。
・1月11日: 細川満元と畠山満家を伴い真言院を訪問。
・1月23~26日: 山名時熙、細川満元、京極高数らの屋敷を訪問。
・2月17日: 一色義貫の屋敷を訪問。
いずれも禅秀の乱に加担していた可能性のある重臣たちです。義持は彼らの邸宅を訪問することで、処分するつもりがないことを内外に示したのでしょう。
禅秀自身は自害しましたが、これより後、持氏は残党狩りにいそしむことになります。
2月6日。持氏は禅秀残党である甲斐の武田信満(たけだのぶみつ:?~1417)を攻め、木賊山(とくさやま:山梨県甲州市)で自害に追い込みました。ちなみに木賊山というのは後に「天目山(てんもくざん)」と呼ばれる山で、戦国時代に武田勝頼が自害に追い込まれた有名な場所でもあります。
3月1日には、持氏は上野国の岩松満純を討伐するよう長沼義秀(ながぬまよしひで)に命じました。岩松満純は禅秀の娘婿で、今回の乱に加担していた人物でした。持氏は禅秀残党を絶対に許さないとの強い姿勢を見せています。
ところが3月3日、関東管領・山内上杉憲基は円覚寺正続院で、敵味方双方を含めた戦没者の供養を行いました。つまり持氏と異なり、敵を融和しようとの姿勢が見られるのです。
この憲基の姿勢は、おそらく幕府の意向を尊重したものでしょう。将軍義持は、禅秀一派を全て消そうとすると大きな戦を招くと懸念し、そこそこのところで手を打とうと考えていたのです。その将軍の意向を察した憲基は、東国でも敵を融和する作戦を取ろうとしたのでしょう。
残党たちを厳しく罰するか、はたまた融和するか。この方針をめぐって幕府(義持)と鎌倉府(持氏)の対立が起こり、憲基はつらい板挟みに遭うこととなります。
「雪の下」って不思議な地名ですよね。調べてみたところ、頼朝が夏に備えて雪を地下に貯蔵させたのが由来だそうで。今も「鎌倉市雪ノ下」という地番があります。
