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日本人の物語01601【室町/西国/応仁の乱】応仁の乱総括

こんなに長めのチャプターになったのは久しぶりかもです。

 応仁の乱終結までを描いてきました。実に複雑な対立構造でしたが、中でも最も複雑だったのは畠山家と斯波家の家督がコロコロと入れ替わったことでしょう。まとめると次のとおりです。
【畠山家の家督の変遷】
当初の段階:弥三郎
文安5(1448)年11月:義就
享徳3(1454)年8月:弥三郎
享徳3(1454)年12月:義就
長禄4(1460)年10月:政長
文正2(1467)年1月:義就
【斯波家の家督の変遷】
享徳元(1452)年9月:義敏
寛正2(1461)年9月:義廉
文正元(1466)年7月:義敏
文正元(1466)年9月:義廉
応仁2(1468)年7月:義敏
 畠山家は5回、斯波家は4回も当主が変更されたのです。こうした経緯があると、畠山や斯波のみならず、誰もが「戦で勝てば当主に返り咲けるはずだ」と考えるのも無理のないことです。周囲の進言があったとはいえ、義政の朝令暮改は大きな影響を与えたといえます。
 乱の影響については既に述べてきましたが、領地の増減という観点で見ていくと、
「多くの守護は領国を失うか現状維持のいずれか。守護が失った領地は、多くの場合守護代や国人のものとなった」
と総括できます。
 最も損をした守護は斯波義敏・義廉でしょう。越前を守護代・朝倉孝景に奪われ、遠江を守護代・甲斐敏光に奪われ、残ったのは尾張だけです。その尾張も義敏・義廉で争っている状況です。3ヶ国から0.5ヶ国に落ちたといえます。
 一色義直の凋落も激しいものでした。元々は丹後、伊勢半国、尾張の一部、三河の一部を領していましたが、丹後をどうにか若狭武田家から守り抜いただけで、伊勢・尾張・三河は失ってしまいました。
 例外的に得をした守護として、赤松政則がいます。乱勃発前は北加賀のみの半国守護だったのが、なんと旧領の播磨・備前・美作3ヶ国を回復し、3.5ヶ国の守護となりました。
 これ以降、各守護の浮沈はさらに著しいものとなります。誰が戦国大名として残れるのか、その栄光と転落を今後じっくりと描いていきます。

実は山名も赤松も早期に退場しますし、大内も斯波もいなくなります。そういえば足利も分家筋を除いていなくなるんでしたね。

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