日本人の物語01564【室町/西国/応仁の乱】観音寺城の戦い
「これまでの復習」に結構文字数を使ってしまいますね。原稿料稼ぎかと思われてしまいそうです。原稿料はもらってませんが。
続いては近江国内の戦乱について触れなければなりません。近江の情勢について軽く復習しておきましょう。
①近江は六角満綱と京極持清が半国ずつ治めていた。
②六角満綱の子である持綱・時綱・久頼の三兄弟のうち、時綱派が持綱派を滅ぼしたが、幕府は時綱の家督相続を認めず、久頼の継承を指示して久頼と京極持清に時綱を討ち取らせた。
③時綱という共通の敵を失った久頼と京極持清が険悪になり、久頼が憤死した。久頼の子・高頼が幼いため、時綱の子・政堯が後見人となるが、政堯は幕府を後ろ盾にクーデターを起こして高頼を追放し、自ら当主となった。
④政堯が殺人事件を起こして幕府に追放され、家督は高頼が継いだ。「京極持清・六角政堯VS六角高頼」の構図が出来上がった。
幕府は佐々木道誉以来ずっと京極家を信頼して重用していますから、京極持清・六角政堯が東軍、六角高頼が西軍に属することとなりました。応仁の乱が始まると、この近江国内の内紛が武力衝突に発展します。
応仁2(1468)年3月。京極持清の子・勝秀(かつひで:1433~1468)が六角高頼の居城・観音寺城(滋賀県近江八幡市)を攻撃しました。観音寺城は4月1日に陥落し、城主・高頼は甲賀(滋賀県甲賀市)へと逃亡していきました。
勝利に沸いた東軍でしたが、しばらくすると高頼に観音寺城を奪回された上、京極勝秀が6月17日に病没してしまいます。
11月8日になって、東軍の京極持清・六角政堯は再び観音寺城を攻撃しました。これまた高頼は城を捨てて甲賀に逃亡しました。このときは籠城していた高頼方の兵23人の首が城下にさらされたといわれ、前回より悲惨な戦いだったようです。
しかし六角高頼は決して諦めません。隣国・美濃の守護代である斎藤妙椿に援軍を要請し、再起を図ります。高頼にとってすぐ隣に西軍・土岐家の領国があったことが幸いしました。斎藤妙椿の軍がやって来たため、京極持清は甲賀の包囲網を解いて撤退せざるを得ませんでした。
しかし持清もここで諦めるわけにいきません。文明元(1469)年5月には近江守護に任命されたことで勢いを得つつ、家臣・多賀高忠に如意ヶ嶽(京都市左京区)に城を築かせました。
ちなみに近江守護職は興国元年/暦応3(1340)年以降ずっと六角家に独占されており、京極家にとって近江守護就任は約130年ぶりの快挙です。京極家はあの佐々木道誉を生んだ名家でありながら、ずっと六角家の後塵を拝し続けていたのですね。
何度か説明していますが、六角家も京極家も佐々木一族です。
