日本人の物語00650【鎌倉中期】御成敗式目の制定*
寛喜2(1230)年は、泰時にとって不幸が続いた年でした。
4月11日、泰時の嫡子・時氏は6年間勤めた六波羅探題の任を終え、鎌倉に戻ってきました。入れ違いに泰時の弟・極楽寺重時が京に向けて出発しました。重時が後任として六波羅探題に就任するというわけです。
泰時が時氏を鎌倉に呼び戻したのは、おそらく将来執権職を継がせることを考慮して、自分の仕事ぶりを間近で見て学ばせるためだったでしょう。ところが時氏は鎌倉に戻るやいなや病に臥してしまい、6月18日に死去してしまったのです。
さらに8月4日には、三浦泰村(みうらやすむら:?~1247)に嫁いでいた泰時の娘が、死産のため死去してしまいます。泰時はこれに先立つ嘉禄3(1227)年には「次男の時実(ときざね:1212~1227)が家人に襲われ殺される」という悲劇に見舞われており、この時点で2男1女を失ってしまったのです。
泰時の後継は、時氏の遺児である6歳の長男・経時(つねとき:1224~1246)と3歳の次男・時頼(ときより:1227~1263)に託されることとなりました。
さて、子の早世という悲劇にも負けず、泰時は精力的に政務に取り掛かりました。その最大の功績が、貞永元(1232)年8月10日の御成敗式目の制定です。
この時代、幕府に寄せられる訴訟は土地争いがほとんどでした。しかし、裁定者の能力や利害関係が判決に影響することが多く、民の不満が高まっていました。そこで泰時は、道理にかなった判決が下せるように成文法を作って対処しようとしたのです。しかも、御成敗式目は御家人対非御家人の訴訟にも適用されるのですが、決して御家人だからといって有利になることなく、非御家人の立場から見ても納得のいく内容になっていました。徳と道理によって統治するという泰時の理想が詰め込まれた法令といえるでしょう。
御成敗式目をめぐっては、こんなエピソードがあります。
九州のある武士が、父が困窮したため所領を売り払ったのを見て悲しみ、苦心してそれを買い戻して父に返してあげました。しかしその後、父は彼に所領を与えず、なぜか全て彼の弟に与えた上で死去してしまいます。
この兄弟間で所領をめぐる裁判が起こり、泰時は初め、兄を勝たせてやりたいと考えました。しかし弟の土地所有権は正規の手続を経たもので、御成敗式目に照らすと弟側が明らかに有利でした。泰時は兄に深い同情を寄せながらも弟に勝訴の判決を下します。
ただしその後、たまたま九州に領主の欠けた土地が見つかった際、泰時はこれを兄に与え、法の厳格な適用と情けによる温情とを両立させたのです。
これまで法令としては唐を手本に作った「律令」しかなかったわけですが、外国を模倣することなく日本古来の伝統を法制化した法令は極めて珍しいものです。読み書きすらできない武士の集団に過ぎなかった鎌倉幕府は、泰時の時代になって法治主義と徳治主義を旨とする洗練された政治機構となったと評価できます。

