日本人の物語00669【鎌倉中期】赤橋家の家訓
時頼は康元元(1256)年9月15日、当時流行していた麻疹にかかり、回復したものの11月3日には赤痢にかかります。
長くは生きられないことを悟った時頼は、嫡子・時宗(ときむね:1251~1284)への権限移譲をどう円滑に行うか、悩んだことでしょう。当時、時宗は5歳の幼児であり、家督についてはっきりした遺言を残しておかなければ争いが生じることは必至でした。
そこで時頼が考えたのは、六波羅探題を務める長時を呼び戻し、中継ぎとして執権職を譲って時宗の後見役をさせることでした。それも、死後に長時を執権に就けるのではなく、自分の目が黒いうちに長時を執権に就けて後見役として機能しているかを監視するということです。院政と似たような考え方かもしれません。
11月22日。時頼は執権職、侍所別当職、そして鎌倉小町の邸宅を長時に譲り、隠居するとともに出家しました。
さて、長時は「北条長時」とも「赤橋長時」とも呼ばれる人物です。ここで北条一族の苗字について説明しておきましょう。
藤原氏が「近衛」「九条」などの五摂家に分家したのと同様、北条氏も分家してその居宅の地名を苗字にするようになりました。
・義時の次男・朝時を祖とする名越北条氏
・義時の三男・重時を祖とする極楽寺北条氏
・義時の六男・実泰(さねやす:1208~1263)を祖とする金沢北条氏
・重時の嫡男・長時を祖とする赤橋北条氏
などが有名です。長時は、鶴岡八幡宮の赤い太鼓橋の近くに居を構えたため「赤橋」を名乗ったわけです。
赤橋長時は、父・極楽寺重時から『六波羅殿御家訓』という家訓書を残されていました。この内容を見ると、重時の几帳面さと高潔な人格がよく伝わってきます。
第1条には、神仏を敬うこと、寛大であること、家族に優しく接すること、貧者に慈悲をかけることなど、重時の考える為政者の理想像が描かれています。
第2条から第6条では、従者への接し方が描かれ、例えば「従者の振る舞いに腹が立っても殺してはならない。人を罰することは冷静な判断で行われるべき」と書かれています。
他にも「人のいるところで唾を吐きたくなっても、遠くへ飛ばすと人に迷惑がかかる」など為政者云々以前の常識的なことも書いてあります。
長時自身のエピソードはさほど豊富ではありませんが、こうした父から道徳教育を受けて育ち、家訓を遵守した長時は、おそらく高度に自制的で高潔な人物だったと思われます。時宗が幼少であるからといって、不当に家督を奪おうなどと考えることはなかったでしょう。
