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日本人の物語01418【信広渡海】蠣崎信広誕生

武田信広はここで「蠣崎信広」と名を変えるのですが、教科書でもWikipediaでもなぜか「武田信広」で記載されています。

 武田信広は乱鎮圧に活躍したことで一目置かれるようになりました。若狭武田氏という高貴な生まれであるとか、安藤政季の客将だったといったエピソードはこれ以降に作られた可能性があります。
 そういえば三守護体制についても、いくつかの文献では上ノ国守護が武田信広だったと記されています。さすがにコシャマインの乱以前の段階で武田信広がかくも上位に位置付けられていたとは信じがたく、実際には蠣崎季繁が守護であり、武田信広はそれを手伝う副将的な位置付けだったと思われます。
 ともあれ、武田信広はこれを機に蝦夷ヶ島の覇者の地位に駆け上がっていきました。
 まずは長禄元(1457)年8月、子が産まれず困っていた蠣崎季繁が、安藤政季の娘を養女とした上で武田信広に嫁がせ、蠣崎家の家督を継がせることとしました。せっかく他人に家督を譲るのならば、誰もが認める英雄にと考えたのでしょう。これにて武田信広は安藤家、蠣崎家、武田家という3つの家柄を併せ持った名家となり、これ以降「蠣崎信広」と名乗るようになりました。
 また、信広はこの頃から「若狭守清岩」と自称しており、自らを若狭武田氏の末裔と位置付けるようになりました。
 蠣崎家の本拠地は花沢館でしたが、信広は長禄元(1457)年8月、近くに洲崎館(北海道上ノ国町)を築いてそこを本拠に定めました。そして洲崎館は松前・上ノ国・下ノ国の三守護の上に立つ存在となりました。新たな館を作ったのは、これまでの上ノ国守護よりも強大な立場に就くことを宣言するためかもしれません。
 長禄2(1458)年4月になると、信広は佐々木繁綱を派遣してコシャマインの残党を鎮圧しました。詳細不明で、どちらが先に手を出したのか、どの程度の規模の戦闘だったのか、よく分かっていません。
 そして翌5月、信広は東西アイヌの酋長を集め、自らへの恭順を誓わせました。これまでは和人とアイヌは対等な立場で取引するとの建て前だったのが、これ以降はアイヌが信広の政権に従属することとなったのです。アイヌが初めて公式に和人の支配下に入った瞬間でした。
 その後、蠣崎信広の子孫が代々蝦夷ヶ島を支配するようになり、江戸時代に入ると蠣崎氏は「松前氏」と名を改めます。蠣崎氏改め松前氏はアイヌとの交易(時には搾取だったりしますが)によって富み栄えていくこととなります。

アイヌの歴史というより蝦夷ヶ島の和人支配の歴史を描いた感じになってしまいましたね。アイヌ側の史料が残っていないので仕方ないのですが。

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