日本人の物語00820【建武期】北畠父子と足利直義の東国派遣
後醍醐天皇は、護良親王を中心とした政権内の対立構造をどうにか解決させたいと思っていたようです。時折りしも、
「京から遠く離れた陸奥国(東北地方)や鎌倉に、旧鎌倉幕府の残党たちが集まっている」
との情報が入ったため、天皇は武芸に優れた者を送り込んでこれを鎮圧しようと考えました。そこで、この対立の最前線に立っていた者を送り込むことに決めたのです。
元弘3(1333)年10月20日。後醍醐天皇は陸奥国に北畠親房とその子の顕家(あきいえ:1318~1338)を送り出しました。天皇の軍であることを強調するために、天皇の七男・義良親王(のりよししんのう:後の後村上天皇:1328~1368)を付けました。
さらに12月14日には、後醍醐天皇は鎌倉に足利直義を送り出しました。こちらにも六男・成良親王(なりよししんのう:1326~1344)を付けました。
鎌倉には既に足利千寿王がいたはずですが、当時3歳ですから、北条の残党狩りにリーダーシップを発揮できるはずもありません。直義の派遣は、治安維持にうってつけの人材を派遣することで鎌倉の安定をもたらすことと、護良親王と特に対立しやすい人間を遠方に追いやることで対立を和らげるという2つの意味を持っていたと考えられます。
年が明けて元弘4(1334)年1月12日、後醍醐天皇は
「大内裏を造営する」
と決定し、そのための増税を決めました。所領争いが全く解決しておらず国民が大混乱に陥っているのに、天皇は自らの居宅を改築するというのです。このような為政者からは民心が徐々に離反していくことでしょう。
太平記はこの頃の不思議なエピソードを記しています。1月29日、天皇の寝所である紫宸殿の屋根の上で
「いつまで、いつまで」
と鳴く怪鳥が出現し、天皇が不眠症に陥ったというのです。「いつまで」とは
「後醍醐天皇の政権がいつまで続くのか」
という政権批判に当たる鳴き声と考えられます。
天皇の命を受けた真弓広有(まゆみひろあり:1305~1369)がこれを弓で射ると、鳥の死骸が落ちてきました。不思議なことに、頭は人間、胴体は蛇でできた鳥だったといいます。広有は五位の位と因幡の荘園を授かりました。
これは源頼政による鵺退治のエピソード(00419回参照)に触発されて作られたストーリーでしょうが、要するに太平記の作者は後醍醐天皇の政治を批判したくてこのような話を作っているわけです。
