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日本人の物語00370【平安後期】延久の荘園整理令

 さて、後三条天皇は即位後すぐに、東宮侍従としてずっと自らに仕えてきた大江匡房(おおえのまさふさ:1041~1111)を蔵人に抜擢しました。これは、藤原氏をもはや重く用いないということの宣言でもありました。権力を失った藤原頼通はおとなしく宇治に隠居することとなります。
 大江匡房は4歳で書物を読み始め、8歳で史記と漢書を読み、11歳で詩を作った神童でした。百人一首には、
「高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」
が収録されています。
 『古事談』には、後三条天皇と大江匡房の主従関係を示すエピソードも載っています。
 ある日、後三条天皇は伊勢神宮に奉る宣命を自筆で書き、大江匡房に読ませました。その宣命の中に「僻事(ひがごと)せず」(私は間違ったことはしません)という言葉があり、匡房はここで読むのを止めました。
 天皇が気になって、「私が僻事をしたことがあるか」と尋ねたところ、匡房は
「あなたは、かつて自分の悪口を言ったという理由で、藤原隆方(ふじわらのたかかた:1014~1079)を左中弁に任用しませんでした。これは『僻事』ではありませんか」
と述べました。これを聞いた後三条は赤面し、反省したといいます。大江匡房は決して後三条天皇のイエスマンだったわけではなく、時には耳の痛いことも述べる得難い側近だったのですね。
 さて、ここから後三条と大江匡房のコンビが様々な政治改革に挑戦していきます。この二人による治世を「延久の善政」と呼びます。どのような善政だったのかを見ていきましょう。
 延久元(1069)年、後三条は「延久の荘園整理令」を発しました。
 荘園整理というのは、歴代の政権が何度も取り組んできた政治課題でしたが、後三条と匡房の取組はこれまでとは違います。二人が行ったのは「証拠書類のない荘園を徹底的に廃止する」というものでした。
 そもそも、これまで行われてきた荘園整理は、藤原氏が政権の中枢にいるときに行われたものでした。その藤原氏こそが最大の荘園領主なのです。これでは藤原氏への遠慮からどうしても不徹底なものになってしまいます。そこで今回は、「記録荘園券契所」なる役所を設置して、ひどく厳しい審査を実施しました。国司の言い分と領主の言い分を比較し、それが真に私有を許された荘園なのかどうかを記録荘園券契所が判断することになったのです。
 延久の荘園整理令の発布を受けて、藤原頼通は
「私の荘園は多くなりすぎた。証拠書類もないので、片っ端から取り上げていただいて構わない」
と声明しました。もはや全面降伏といった印象ですね。

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