日本人の物語00816【建武期】足利尊氏誕生
さて、元弘3(1333)年8月5日に発表された恩賞は、多くの武士の不平を呼んだわけですが、肝心の高氏はというと、この恩賞に不満を漏らした形跡はありません。
高氏は武蔵守のほかに「尊氏」という名前を授かりました。元々「高氏」というのは北条高時に烏帽子親になってもらった際に「高」の一字をもらった名前であり、鎌倉幕府が滅んだ今となっては無意味な名前です。そこで後醍醐天皇は自らの名「尊治」から一字を授け、これ以降「尊氏」と名乗るよう命じたのです。
何らかの実益を伴わない贈り物ではありますが、尊氏自身はこれを相当に喜んで受け取ったらしく、この後、後醍醐天皇と対立するようになった後もずっと「尊氏」を使い続けています。その後も尊氏は事あるごとに後醍醐天皇への思慕を表明しており、直接の不満を漏らしていません。どうやら建武政権への不満は尊氏本人が感じていた不満ではなく、足利家家臣たちが抱えていたもののようです。
さて、大将クラスへの恩賞が発表されたわけですが、中隊長・小隊長クラスへの恩賞は未だ発表されません。後醍醐天皇や護良親王が量産した安堵状を一つ一つ確認し、真偽を見定めた上で処理していかなければならないのに、その作業が遅れに遅れ、既に多数の武士たちが不満をこぼしていました。
混乱の中で、洞院実世は自信を失い辞任してしまいます。
続いて上卿に就任したのは、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房でした。
藤房といえば、笠置山が陥落した後に後醍醐天皇と山道をさまよった人物でしたね。天皇にとって最も信頼の厚い公卿の一人で、常陸国(茨城県)に流罪となっていましたが、無事に生き延び、この頃再び京に呼び戻されていたのです。
その藤房は洞院実世よりも上手く恩賞問題を切り盛りしようとしましたが、せっかく藤房が調整して恩賞を決めているのに、後醍醐天皇はその頭ごしにまたもや勝手な恩賞を次々と決めてしまいます。
さすがの藤房も自信を失い辞任してしまいました。
次に上卿になったのは九条光経(くじょうみつつね:1276~?)でした。九条光経が着任した後も、やはり恩賞を決定する作業は遅々として進まなかったようです。おそらく前任者2人と同じ障害にぶつかったのでしょう。個性の強い上司を持つと苦労するものですね。
後醍醐天皇は土地問題を解決するために、どの土地がどの人物に帰属するのかを記録する「記録所」や、恩賞を決定するための「恩賞方」といった役所を新たに設置し、増員を図りましたが、やはり問題は解決しなかったようです。
