日本人の物語01156【南北朝後期】貞治の変 大原野の宴
南北朝や戦国を書いているうちは、イデオロギー色が出ないので論争になるおそれはありませんが、明治以降を描くと炎上もあり得るなと今から懸念してます。だいぶ先ですが。
斯波高経はいつ失脚するのか。人々がこの1点に注目していた中、高経を葬る役割を果たしたのはやっぱり佐々木道誉でした。
佐々木道誉は京の五条大橋を建設する仕事を任されていましたが、なかなかの大仕事なので遅延していました。ところが高経がこの仕事を横取りして、さっさと橋を架けてしまいます。これによって面目をつぶされた道誉は、復讐の機会を窺っていました。
その後しばらくして、将軍御所の庭の花が満開となったので、高経は御所で宴会をやろうと計画しました。この宴会は正平21/貞治5(1366)年3月4日に開催されることとなりました。
この宴会に誘われた道誉は、初めは参加する意向を示していましたが、なんと同じ日に大原野の勝持寺(京都市西京区)で宴会を開催し、歌や舞いの名人たちを皆そちらに引き込んでしまいます。高経への嫌がらせでした。
道誉の開催した宴会はひどく評判を呼び、高経の耳にも入りました。高経は激怒して、たまたま道誉の税未納という軽微な罪が発覚したことをいいことに、我が子である管領・斯波義将を動かして道誉の摂津守護職を剥奪してしまいました。
道誉も我慢ならず、将軍義詮に様々な高経のスキャンダルを吹き込みます。こうして8月4日に義詮も遂に決心し、高経を討つことが決まったのでした。討っ手は六角氏頼です。
自らの追討命令が出たことを知った高経は、8月4日夜、義詮の元に参上し、
「私が何らかのご不審を受けていると知りました。私がどんな讒言を受けているのか知りませんが、その真偽をよくご判断いただきたい」
と弁明します。義詮は何ともいえない表情で
「あなたの言い分はよく分かる。しかし今の世の中は私の思い通りになるわけではない。しばらく越前へ下って、噂が静まるのを待ってはどうか」
と述べました。将軍ともあろう者が自ら最高権力者ではないことを認めていますね。これを聞いた高経は諦めて越前に帰ることを決めました。
六角氏頼は800騎の兵で将軍御所に参上し、警護に当たりました。しかし将軍御所と斯波高経邸は隣接しているので、集まった兵のどれが将軍方でどれが高経方なのか区別もつかない状況です。
高経は最後まで戦うかどうか迷っていた様子でしたが、8月8日夜、遂に越前へと落ち延びていきました。洛中での戦はかろうじて避けられたのです。
