日本人の物語01482【室町/西国/大乱前夜】畠山政長登場
畠山家の家督争い、第二幕が始まります。
次は越前長禄合戦と並行して起こった大和国・河内国関係の出来事をまとめていきます。
畠山家の家督をめぐっては、義就が弥三郎に勝利し、義就が大和国内に攻め込んで弥三郎派を次々と破っていったところまでお話ししました。将軍義政はコロコロと支持を変えましたが、現在は義就を支持しています。
ところが義政は徐々に義就を嫌うようになります。その原因は、義就が将軍の権威を傘に着て勝手な振る舞いを繰り返したことでした。
康正3(1457)年7月。畠山義就の被官が、勝手に上意(将軍の意志)と称して多武峰(とうのみね:奈良県桜井市)の合戦に介入したことが義政の逆鱗に触れました。義就は大和国内の荘園を没収されてしまいます。
さらに9月にも、義就は上意と称して山城国木津(京都府木津川市)を攻撃しました。これまた激怒した義政は、義就に預けていた筒井氏の旧領を取り上げてしまいました。
こうした義就の行為が、敵方を有利にしてしまいます。長禄3(1459)年5月、細川勝元の斡旋により、弥三郎派の成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信が赦免されました。弥三郎自身の赦免まであと一歩です。
弥三郎派は必死に嘆願を続けましたが、6月1日、肝心の弥三郎が病死してしまいます。ここで弥三郎派は諦めても良かったはずですが、義就が将軍義政を怒らせ、義政がある程度弥三郎派に目配せしてくれている現状もあったことから、まだまだ勝負できると思ったのでしょう。光宣は弥三郎の弟を擁立し、義就との対決に臨むのです。
この弟こそが、義就と生涯に渡って死闘を繰り広げることとなる畠山政長(はたけやままさなが:1442~1493)です。この時点ではまだ弥二郎と名乗っていましたが、ややこしいので政長で通します。
7月23日。義政は弥三郎を正式に赦免しました。死後とはいえ兄が赦免されたことは、政長にとって大きな一歩です。義就から家督を奪うべく、政長派はまだまだ運動します。
そういえば、弥三郎を支援していた細川勝元・山名宗全はどうなったのでしょう。弥三郎は死んだものの、その弟の政長にも変わらぬ支援を施してくれるのでしょうか。
少なくとも勝元は政長を支援してくれるようになりました。しかし宗全については、例の赤松再興問題(01478回参照)で勝元と揉めて以降、独自の動きを見せ始めていました。というのも、この年の5月に加賀半国守護となった赤松政則が義政への謁見を許されたのです。宗全としては由々しき事態であり、赤松家の再興を心底から憎んだことでしょう。
11月24日夜、赤松再興を企画した張本人、石見太郎左衛門が飛鳥井家の宴席に招かれた帰途、十数人の刺客に襲われ刺殺される事件が起こりました。当然、犯人は宗全以外に考えられません。こうした事件を見るにつけ、勝元は盟友たる宗全との距離が徐々に空いていくのを感じていたと思われます。
宗全って割と陰険な手段も用いるのですねえ。
