日本人の物語00476【平安末期】火打城の戦いと般若野の戦い
義仲・頼朝関係の悪化により、寿永2(1183)年3月に頼朝は義仲を追討する方針を示したのですが、一方の義仲は、ここで頼朝と対立することは不利だと思ったのでしょう。嫡子・義高(よしたか:1173?~1184)を頼朝の長女・大姫の婿に出し、頼朝と和議を結ぶこととしました。
このとき、義高は10歳で、大姫は5歳です。政略結婚にしてもあまりに早すぎる気がしますね。
3月25日には義高は鎌倉に向けて出発しました。事実上の人質というわけです。こうして鎌倉にやって来た義高とそれを出迎えた大姫は、婚約者でありながら兄妹のように仲良く育っていきました。その果てにやって来る悲劇を、二人ともまだ知りません。
さて、後顧の憂いを取り除いた義仲は、いよいよ平家の主力軍と対決することとなります。
寿永2(1183)年4月17日。義仲を追討するため、平維盛が京を出発し、北陸に向かいました。富士川の戦いで大敗したあの平維盛に、汚名返上のチャンスが与えられたということでしょう。
4月26日には平家軍は越前国に入り、27日に反乱勢力が立て籠もる火打城(福井県南越前町)を取り囲みました。しかし、火打城は川をせき止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため平家軍は城に攻め込むことができません。数日間に渡って平家軍は城を包囲していましたが、城に籠もっていた斉明(さいめい)という僧侶が平家方に内通してしまい、
「ここの柵を切れば湖が決壊する」
との情報を伝えてしまったため、平家軍はこの情報に基づいて湖を決壊させ、火打城を陥落させました。
こうして平家軍は越前国を平定し、加賀国(石川県)に入国しました。
平維盛軍は、越中・越後国境にある寒原の険(新潟県糸魚川市)に布陣し、越後国府にいる義仲軍が進軍してくるのを迎え討つこととしました。越中の地理に詳しい平盛俊(たいらのもりとし:?~1184)に兵5千を与え、先に越中へと進軍し、般若野(富山県高岡市)に布陣させました。
一方、越後国府で平家方の状況を聞いた木曽義仲は、自ら軍を率いて越中へ出発することとしました。まず今井兼平が先遣隊として兵6千を持たされ、越後国府を出発しました。平家軍より先に越中に入り、御服山(現在の呉羽山:富山県富山市)に布陣します。
5月9日未明。先に攻撃を開始したのは今井兼平軍でした。夜闇にまぎれて敵へ接近しての夜襲でした。平盛俊軍は苦戦し、退却します。
般若野の戦いは、木曽義仲と平維盛がそれぞれの先遣隊を戦わせただけの前哨戦に過ぎませんでした。ここから両者はいよいよ本格的に激突することとなります。
