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日本人の物語00493【平安末期】義仲の最期

 恩田師重の隊と戦って巴も去り、義仲は遂に今井兼平とたった2騎となりました。二人で歩きながら、義仲は
「いつもは何とも思わぬ鎧が今は重く感じる」
と兼平に語りかけました。平家物語に残る有名な言葉です。
 近江粟津(滋賀県大津市)まで来たところで、二人は敵50騎と出くわしました。兼平は義仲に松林に逃げるよう指示し、一人で奮戦しますが、逃げた義仲は兼平の無事を気にしてふと振り向きました。その瞬間、矢が額に当たって義仲は戦死しました。享年30。
 大蔵合戦という源氏同士の内紛によって父を失い、木曽の山奥で天下を夢見ながら育ち、自らもまた源氏同士の戦いで戦死するという数奇な運命でした。
 義仲の戦死に絶望した今井兼平は
「日本一の剛の者の自害の手本を見よ」
と言って、太刀をくわえて自ら落馬するという豪胆な方法で自害を遂げました。
 義仲の死の翌日、つまり寿永3(1184)年1月21日、河内国で戦っていた樋口兼光は、義仲・兼平の戦死を知って投降しました。義経は助命しようとしましたが、後白河法皇の側近らは強く死罪を主張し、結果的に死罪に決しました。樋口兼光は処刑に当たって
「義仲の隣に首を置いてほしい」
と願い出て、その願いは聞き入れられました。
 これで、木曽四天王は全員が戦死又は刑死したこととなります。
 一方、義仲軍で宇治川の戦いの大将を務めた志田義広は、その後伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市)に籠もって戦いましたが、合戦の末捕らえられ、5月4日に斬首されました。
 こうして、平家方・鎌倉方と並ぶ三大勢力の一角をなした木曽勢は完全に全滅しました。
 後白河法皇は、義仲と違って立ち振る舞いの丁寧な義経をいたく気に入り、これ以後は義経と提携していくこととなります。
 ちなみに、義仲軍を破った旨の報告が鎌倉へもたらされた際、義経の放った使者は
「お味方大勝利」
というばかりでちっとも要領を得ず、頼朝たちをイライラさせました。その一方で、随行していた参謀・梶原景時の報告は文書形式となっており、最もまとまっていたといいます。
 これ以降、義経はたびたび梶原景時と対立し、頼朝は梶原景時の方を信頼して義経を蔑ろにしていくのですが、その片鱗は既にこのとき見え始めていたようです。義経は確かに戦の天才ではありますが、報告書の書き方などは梶原景時の能力に敵わなかったようです。

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